山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第418回

2018.11.02

mr毛利家181102毛利元就像写真は、毛利元就の肖像画です。テレビや教科書などでもおなじみの肖像画ですから、よく見ることがあるのではないでしょうか。

 

制作年代ははっきりしません。ただ、画像上部の賛は、天正十九年(一五九一)に東福寺の煕春龍喜が記していますので、その頃描かれたものだと考えられています。現在では、賛文の内容などから、その年にほぼ完成した広島城への入城に合わせて、広島に移転させた元就の菩提寺洞春寺(とうしゅんじ)におさめるため、孫の輝元が描かせたと推測されています。

 

柔和な老境を描いたようですが、鋭い目つきなどは、戦国の荒波をくぐり抜けた老練な戦国武将の肖像画として秀逸とされています。

 

元就の嫡孫として生まれた輝元は、母と父が暮らす郡山城内の尾崎丸で育てられたようです。戦場を駆け回り、留守がちだった父の隆元からは、頻繁に書状とそれぞれの土地で手に入れたものが送られていたようです。幸鶴丸(こうつるまる)と呼ばれていた輝元も、両親のもとでのびのびと暮らしていた様子は、親子でやりとりされた手紙から明らかにできます。

 

しかし、永禄六年(一五六三)隆元の急死後、輝元の境遇は一変しました。余命幾ばくもないと自覚した元就は、幼少でありながら当主となった輝元を、自らの手で当主にふさわしい人物とすべく、細かな指示を出すようになりました。尼子氏との対戦では、戦場に同道もしたようです。いずれも、その指導は、かなり厳しく、後年輝元自身、その頃の輝元が、その指導が「大形ならぬ」もので、元就の意向に沿うように努めたため、今に至るまでどうにか国の主として過ごしてこられたと、嫡男秀就の教導役であった毛利秀元・福原広俊の両人に語っています。

 

優しい好々爺にも、眼光鋭い歴戦の戦国武将にも、どちらにも見えるこの肖像画は、優しくもあり、厳格でもあった祖父元就に対する、輝元の想いが強く反映されているのでしょう。