山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第416回

2018.10.19

mr毛利家181019城主格とする沙汰書写真は、明治政府が、吉川経幹(つねまさ・駿河守)を城主格とした辞令の写です。城主格とは、文字どおり城持大名の意で、大名の格式の一つとして、国持に次ぐとされました。江戸時代、城郭を新たに作ることは、厳しく制限されましたから、実際に城を持つ持たないは別として、石高で五万石~十数万石程度の大名が任じられたようです。武門の長である大名にとって、「一城」の主として認められることは、憧れの一つであったようです。

 

これより先の文久三年(一八六三)二月、宗家である長州(萩)藩主毛利敬親は、攘夷決行のため、京都から帰国の途次、岩国に立ち寄り、岩国領主の経幹を、支藩主である「末家」にすると伝えました。ただこれは、毛利家内部での処遇改善に過ぎませんでした。対外的にも「末家」であることを、正式に認められるためには、幕府の承認が必要でした。その後、長州藩は幕府と対決に至りましたので、吉川家の「末家」昇格が認められるような状況ではなく、正式に昇格が認められたのは、王政復古後の慶応四年(一八六八)三月のことでした。

 

この間、経幹は、攘夷のため帰国した宗藩主毛利敬親・元徳父子に代わって、上方の警衛にあたり、禁門の変後には謹慎中の敬親父子に代わって、対幕府の交渉を引き受けるなど、宗家のために尽力しました。こうした功績を、朝廷も認めたらしく、この達書にも「宗家へ対シ恭順ヲ守リ」「近年宗家宰相(敬親)父子ヲ助ケ」勤王に勤めたと記されています。その結果、「末家」に昇格してわずか数ヶ月で、敬親・元徳父子への貢献が特に認められ、今度は、朝廷から城主格への昇格が認められたのです。

 

吉川家の末家昇格は、攘夷実現に向け、吉川家の協力を得るためだったと思われます。しかし、敬親の思惑を超える経幹の働きぶりは、岩国藩吉川家にとって長年の悲願であった、長府・徳山両支藩と同格の地位を与えるに足るものだったのでしょう。