山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第415回

2018.10.12

毛利家180921半5写真は、長州(萩・山口)藩最後の藩主毛利元徳の正室安子の肖像画です。実子に恵まれなかった長州藩主毛利敬親は、支藩主徳山毛利家より元徳を養子に迎えて、嗣子に据えました。同時に、同じく支藩主長府毛利家より安子を養女に迎えて、元徳の妻としたのです。

 

この縁組の、明確な意図は明らかにできませんが、おそらくは、毛利宗家と支藩主との間柄を緊密にし、挙藩一致の体制を作り上げるためであったと思われます。

 

長州藩では、支藩主である徳山毛利家、ならびに長府毛利家を「御支封様」などと呼び、宗藩主の親族として、藩主家の婚姻や藩の重大事などを報じるなど、特別な位置付けとしていました。この両支藩主と並ぶ存在が、岩国の吉川家でした。毛利元就の次男吉川元春を実質的な始祖とするこの家は、長府・徳山両家と同様に、独自の領域支配を認められていました。しかし、江戸初期の対幕府関係において、支藩主とは認められなかったため、特に幕府との関係では、長府・徳山両家との間に、江戸時代を通じて、何かと差が付けられていました。

 

敬親は、吉川家の待遇も改善しました。文久三年(一八六三)二月、帰国の途次、敬親は岩国に立ち寄り、岩国領主の吉川経幹(つねまさ)を、支藩主である「末家」にすると伝えました。正式な家格については、改善が遅れましたが、王政復古後の明治元年(一八六八)三月、敬親・元徳父子への貢献が認められ、朝廷から正式に「末家」への昇格が認められました。

 

田中誠二氏によると、藩への昇格の遅れは、廃藩置県後の藩債処理にも影響し、岩国藩の藩債として、明治新政府に引き継がれたのは、家格昇格の明治元年(一八六八)以降の債務に限定されたといいます。それ以前の債務は、吉川家の「私債」とみなされ、吉川家の責任をもって処理されることになったようです。こうした措置が、岩国地域の近代化や、江戸時代・明治維新に対する歴史観に、どういう影響を与えたのかは興味あるところです。