山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第413回

2018.09.28

f-毛利家180928_山口藩知事辞令写真は、毛利元徳を山口藩知事に任命する辞令です。会津戦争の終結後、元徳の父敬親は、明治二年(一八六九)正月、長州(萩・山口)藩主として、薩摩・土佐・肥前三藩主と連名で、封土と人民を朝廷に返上する「版籍奉還」を願い出ていました。この願いが、六月に入って認められ、新たに旧藩主を、藩を統べる地方官に任じるため出されたのが、この辞令でした。

 

この間、箱館戦争に勝利を収め、新政府側の勝利が確実になるとともに、敬親が隠居し、元徳が藩主となっていたため、辞令の宛名が元徳にされているのです。

 

鳥羽伏見の戦い後、東海道・中山道に沿って関東制圧に向かうにあたり、新政府は、沿道の宿場を管理する諸藩に対して、通過する諸藩兵への兵糧など物資の提供を命じました。ただそれは、諸藩からの申し出により、後日新政府が金穀で補填すると伝えています。これは、関東への進撃を急ぐためと、手元に資金のない新政府の、苦肉の命令だとも取ることができます。

 

また長州藩では、関東制圧後の会津攻略のため、北越・奥羽に出兵した諸隊が、各方面の総督を通じて、藩主敬親に「軍忠状」を提出しています。軍忠状とは、中世以降、武士たちが、戦場で太刀打ちや頸を討ち取った際、或いは戦傷を蒙った際に、その状況を、その場の指揮官に提出し、後日恩賞の査定の材料とするものです。この時の軍忠状も、戦国のものと全く同じ書式・文面で、いつどの戦場で戦死したか、負傷したかを、当事者一人ごとに細かに記し、冒頭部分に藩主敬親が、確かに確認したと黒印を押しています。

 

これらをみるかぎり、この段階では、少なくとも戦いに従事する兵の意識や、その統制の面では、武器・兵糧を自弁で補い、奉公に対する御恩を期待する、旧態依然とした部分が根強かったと考えざるを得ません。したがって、戦争に参加した武士たちの負担や、それに伴う恩賞への期待にどう応えるかは、元徳が直面した問題の一つであったことはまちがいないようです。