山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第411回

2018.09.14

毛利家180803半5写真は、「中啓(ちゅうけい)」という、扇子の一種です。骨が途中で曲げられ、閉じても半開きの末広がりの状態となるため、「末広」とか「末広扇」とも呼ばれます。江戸時代の武家では、直垂(ひたたれ)などを着用する時に用いたとされます。

 

この中啓は、箱の墨書によると、明治二年(一八六九)三月六日、上洛して参内した長州(萩)藩主毛利敬親(たかちか)が、明治天皇から与えられたものだそうです。この年二月、朝廷は勅使万里小路通房(までのこうじみちふさ)を山口に派遣し、敬親の多年の勤皇を賞するとともに、上洛して大政を翼賛せよと命じていました。敬親の上洛はこの要請を受けたものでしたが、体調が思わしくなかった敬親は、三月六日、参内して隠居を願い出、後継者である世子(せいし)の元徳(もとのり)への家督相続を願い出たのです。この願いは、天皇の東京行幸を控えていたため、しばらく検討されるとして、改めて六月四日に勅許がおりました。

 

敬親は、つねづね訓示などで、長州藩のことを「国家」と呼び、家中に対しては、国家のため奉公することを求めました。この「国家」とは、「国」と呼ばれる領民を含めた封土と、家中と呼ばれる家臣団も含めた毛利「家」を合わせた言葉で、戦国時代あたりから用いられるようになった用語です。敬親にとって「国家」とは、祖先より受け継いだ大切なものでした。

 

日本全体を指す言葉として、敬親は「皇国」という言葉を用いています。敬親の訓示では、毛利家が、皇国あるいは天朝と呼ばれた朝廷への忠節を尽くすにあたり、家臣団に対しては、天朝に忠節を尽くす毛利家に対して奉公してほしいこと、その奉公こそ「国家」のために大切なことだと、述べています。敬親は「国家」と「皇国」への奉公を、区別していました。

 

朝廷から再三の政務参加を求められた敬親ですが、体調もすぐれず、結局参加することはありませんでした。敬親は、倒幕・王政復古の後、どう過ごすつもりだったのでしょうか。