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第410回

2018.09.07

毛利家180907毛利元徳像写真は、最後の長州(山口・萩)藩主となった毛利元徳(もとのり)の肖像画です。

 

元徳は、支藩徳山藩の藩主毛利広鎮(ひろしげ)の実子でしたが、宗藩の藩主毛利敬親(たかちか)の養子となり、成人後は、父敬親の名代として、対幕府・朝廷交渉を担ったり、藩兵を指揮するなど、まさしく敬親と二人三脚で幕末維新の動乱を乗り切りました。

 

禁門の変により朝敵とされた長州藩が、王政復古により赦免されると、元徳は再び朝廷に出仕するようになります。戊辰戦争が終結した明治二年(一八六九)三月、敬親は元徳への家督相続を願い出ます。この相続は、明治天皇の東京行幸など、朝務多忙を理由になかなか勅許されませんでしたが、版籍奉還が容認される直前の六月四日に至って許可されました。

 

同年六月十七日には、版籍奉還、すなわち藩の封土と領民を朝廷に返還することが認められ、元徳は、新たに山口藩知事に任じられています。この職は、二年後の明治四年(一八七一)には、廃藩置県により免じられました。元徳は、動乱後の明治新政府の樹立、廃藩に至る激動の二年を、藩主・知藩事として長州藩を率いたことになるのです。

 

二百数十年にわたって続いた藩の体制を、山口県へと移行することは、少し想像するだけでも大変だったと思われます。そもそも藩は、自立した「国家」として、独自の行政・司法・軍事組織を持ち、幕府もその内政にまで関与することは、藩主の幼少や著しい藩政不良など、ごく一部の場合を除いてはありませんでした。したがって、その地域地域の実情に合わせた、柔軟な支配が行われていましたが、県は、中央集権という、明治政府の強い権力の下で、全国画一の統一的な支配を目指すものでしたから、その実現はそうは容易くなかったと思われます。

 

明治維新を主導した長州藩がどのように山口県へと移行したのか、最後の藩主として、毛利元徳がどのような役割を果たしたのかについては、まだ解明されていない部分も多いようです。