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第409回

2018.08.31

毛利家180831江戸麻布邸遠望図写真は、谷文二が描いた、毛利家の江戸藩邸「麻布邸」から眺めた江戸城下の遠望図です。「麻布邸」の奥深くから、東方面を眺めて描かれたもので、江戸城や汐留の海岸が詳細に描かれています。文二は、毛利家の親族であった田安家に縁が深く、毛利家とも親交のあった田安家出身で、幕府老中を務めた松平定信に仕えた谷文晁の子でしたから、藩邸の奥深く入ることを許されて描いたものなのでしょう。

 

この「麻布邸」は、江戸時代の初めに、長州(萩)藩の初代藩主毛利秀就が、手狭となった上屋敷を補うために、幕府に願い出て手に入れたものだそうです。七代藩主の毛利重就は、この屋敷に大きく手を入れ、江戸に参勤した際には、後嗣である世子の治親夫妻とともに暮らしていたこともあったようです。毛利家が抱える江戸藩邸の内では、十代藩主毛利斉煕が隠居所として購入した葛飾邸を除けば、最も広い屋敷で、邸内にあった檜の林と池を活かした庭がすばらしく、重就が幕府の重臣を招いて接待した記録も残されています。

 

この「麻布邸」は、元治元年(一八六四)の禁門の変により、長州藩が朝敵とされるとともに、幕府によって没収されました。ただ、文久二年(一八六二)の参勤交代制の緩和を受けて、藩主家族はすでに江戸を引き払って帰国した後でした。田中誠二氏によると、萩から山口へ城・藩庁を移す山口移鎮の用材として利用するため、江戸屋敷の御殿そのものも解体して、国許に持ち帰っていたようです。そのため、屋敷としてはかなり縮小され、留守居の家臣が残されていただけのようです。しかも、朝敵となり、幕府軍の包囲を受けた彼らは、さほど抵抗することもなく、接収に応じました。その後、見せしめのためか、幕府によって徹底的に屋敷地は破壊されたため、往時のよすがを残すものはあまりなかったといいます。しかし、この事件は江戸を揺るがす事件として、当時江戸にいた各藩の藩士によって、全国に知らされたようです。