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第408回

2018.08.24

毛利家180824久坂義助書状写真は、久坂義助(玄瑞)が高杉晋作(暢夫)に宛てた書状です。

 

文久三年(一八六三)八月十八日の政変で、京都から追放されたことを「面目もなき失策」と述べ、朝廷への申し開きのため、京都へ向かう使者井原主計に随伴して上京することを「鉄面皮之次第」と弁解しながらも、政変の責任を問わず、寛大な処置をとったばかりでなく、雪冤という大任を与えてくれた、主君毛利敬親への恩に対して「死力を以て尽力」すると、ちかっています。藩の復権と、藩主毛利敬親・元徳父子の無罪獲得という、重大な使命に対する、久坂の意気込みが伝わるもので、古くから高杉への別れの手紙としてよく知られています。

 

久坂は、これより先、学習院に出入りして、攘夷強硬派の公家たちと親交を深め、対朝廷工作の一翼を担ってきました。その甲斐あって、朝廷・孝明天皇の意向を即今攘夷へと固めさせ、その力を以て、五月十日をもって攘夷を決行すると、幕府にも約束させたのです。

 

攘夷期日を控えて帰国した久坂は、五月十日の攘夷決行当日、「攘夷」と称して、米国の商船を砲撃しました。しかもそれは、井上勝生氏によると、長州(萩)藩の馬関総督毛利能登の制止を振り切って行ったものであり、国際法上も違法な行為だったようです。

 

そこまでして攘夷を強行した久坂たちでしたが、外国勢の反撃により、藩の海軍は壊滅します。こうした情報が京都に届くと、八月十八日、長州藩は、孝明天皇の許しを得た会津藩・薩摩藩などにより、御所から追放されてしまったのです。

 

こうした状況の中で、藩の復権をかけて上京する久坂が、悲壮な覚悟で高杉に送ったのが、この書状なのです。しかし、攘夷への期待を裏切られ、却って国の危機を招いたこと、廷臣三条実美を無断で同道した長州藩、なかでも攘夷を主導してきた久坂らに対する孝明天皇の怒りはすさまじく、この両者のすれ違いは、長州藩にさらなる危機をもたらすことになるのです。