山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第407回

2018.08.10

毛利家180810金梨地菊水文蒔絵硯箱写真は、硯箱(すずりばこ)といい、硯や筆など、筆記用具を収める箱です。これは、梨地(なしじ)に、赤みがかった漆で水の流れを表し、金銀の高蒔絵で菊花をあしらっています。

 

記録によると、禁門の変の罪を許され、明治元年(一八六八)二月十二日に、長州(萩)藩主毛利敬親に代わって参内を遂げた、養子元徳が、朝廷から与えられたものだそうです。

 

禁門の変における御所への発砲が咎められ、長州(萩)藩は朝敵とされました。しかし、幕府の攻勢を、四つの国境すべてで撃退すると、幕府の弱体ぶりに見切りをつけた薩摩(鹿児島)藩と、水面下で交渉して同盟を結び、倒幕に向けて動き始めたことはよく知られています。このとき長州藩は、幕府側の長州攻撃の拠点となった芸州(広島)藩とも、水面下で交渉し、薩長両軍の会合後、さらに芸州藩領の御手洗(広島県呉市)で、芸州藩の軍艦と合流の上、薩長芸三藩で、倒幕の帥を起こすことを計画していたのです。

 

倒幕に関しては、さしもの薩摩藩も、藩論を簡単に一致できたわけでなく、その説得などに時間を要したこと、大藩といえど経済的に困難であったことは例に洩れず、ほぼ計画通りに出兵計画を実行した長州藩にくらべ、薩摩藩の動きは遅れがちだったようです。

 

また、遠距離の移動が困難であることから、薩摩藩は、挙兵不調の時には、藩主ならびに藩兵を、長州領内に滞在させたいと要望したようですが、長州藩側は、長期の駐屯が、不慮の事態を惹起させかねないと、この要望を否定しました。禁門の変で直接対峙し、さまざまなわだかまりが解けないまま同盟を組んだ薩長両藩の間には、難問が山積していました。

 

一方で、長州藩は、芸州藩に、復権のための朝廷への周旋役として期待をかけたようです。実際に、毛利敬親父子の官位復旧の沙汰を、朝廷に奏請し、長州に伝えたのは芸州藩でした。幕末動乱期における芸州藩の役割は、長州にとって意外に大きなものだったようです。