山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第406回

2018.08.03

mr毛利家180803久坂玄瑞馬関防備意見書写真は、久坂玄瑞が長州(萩)藩政府に提出した赤間関の防備に関する意見書の一部です。

 

実物はとても長いものですが、海路が狭まっている関門海峡を絶好の攘夷の地と見定めて、壇ノ浦から弟子待・山徳・竹子島・六連島など、要衝の地名をならべて、そこかしこに大砲を据えるよう提言しています。その細かさは、おそらく玄瑞が実際にこの地に足を踏み入れて、見聞した結果を記しているからだと考えられます。さらに玄瑞は、大砲の少なさを歎き、速やかに鋳造を進めるとともに、梵鐘や燭台などの仏具も、萩城中の無用な金具も鋳つぶし、重臣が率先して器物を供出すれば、百姓・町人もそれに従うだろうとしています。

 

玄瑞は、攘夷の期日が定まるまで京都で政治的な工作に奔走していたはずです。長州に帰国できたのは、攘夷期限とされた文久三年(一八六三)五月十日も押し迫った頃だと思われますので、その頃に至ってもなお、攘夷の急先鋒であった長州藩ですら、砲台の整備や、大砲の充実など、攘夷の準備は不十分だった、と考えざるを得ません。

 

玄瑞自身は、その責を、支藩であり、現場を取り仕切る長府藩のやる気のなさ、などに帰しているようですが、足りない大砲は、先大津宰判などから至急馬関に回すよう訴えています。

 

先大津宰判は、日本海に突き出た半島や、中世には朝鮮半島との交易を行っていた港もあるような場所ですが、久坂からすれば、最初に攘夷戦の舞台となる場とは思えなかったようです。このような認識は、藩も同様で、山口への藩庁移転にあたり、「敵衝」「賊衝」と呼ぶ、外国勢との係争地は「南海」すなわち瀬戸内海に多いとしていました。

 

一般に「攘夷」は、神国である日本から外国勢力を追い払うこと、とされますが、久坂や藩、さらには幕府や朝廷が考える「攘夷」なる行為が、それぞれ具体的には何を目指し、方法は、手順は、成算は、などと考えていくと、はっきりとしないことが多いように思われます。