山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第405回

2018.07.27

mr毛利家180727萩藩領図屏風・2018戊辰写真は、萩(長州)藩の領域を描いた屏風絵です。全部で六枚の画面に、防長両国のうち、吉田(下関市)から東と、高森(岩国市)から西の部分を描いています。赤間関や長府(ともに下関市)、岩国などは描かれていませんから、萩本藩領のみ描いたもののようです。

 

写真の場面は、ちょうど領域の中央、小郡(山口市)の辺りを描いたものです。南に小郡の茅葺屋根の建物が連なる集落を描き、山々を隔てた北側には、高くそびえる指月山と、藩の象徴としての萩城の天守閣と櫓(やぐら)が描かれています。

 

山並みや街道の宿場、港町などは比較的丁寧に描かれていますが、その他のものは、ほぼ省略されています。領内でも見どころになりそうな名所・旧跡は、ほとんど省略されていますので、単なる観賞用ではなかったのかもしれません。ただ今のところ、制作の目的は不明です。

 

この絵のもう一つの特徴は、日本海側については、萩城と、萩を取り巻く島々を除いては、すべて省略している一方で、比較的瀬戸内側は丁寧に描かれていることです。

 

幕末に萩藩は、居城を萩から山口に移します。それに先立つ藩主毛利敬親の訓示によると、萩城は阿武郡の一隅にあり、割拠戦闘には適しているものの、「賊衝」の多い南海での戦闘を指揮するには不向きで、領国の中央で戦闘指揮に適した山口に城を移す、としています。

 

「賊衝」とは、来たるべき攘夷戦において、異国人との係争が想定されている土地のことで、藩としてはそれを南海、すなわち赤間関を始めとする、瀬戸内側の港町と想定していたようです。赤間関の防備に関する意見を述べた久坂玄瑞も、先大津宰判の大砲を下関に移せと主張していますから、どうやら日本海側の危機は薄いと考えていたようです。

 

幕末の外国勢力排斥のことは、一般に「攘夷」と、一言でまとめられますが、「攘夷」の実態が何なのかは、個別の事例を検証しつつ、細かく明らかにしていく必要があるようです。