山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第404回

2018.07.20

mr毛利家180720黒糸威具足2018戊辰写真は、毛利敬親所用の甲胄です。よろいの部材を黒い糸でつないでいますので「黒糸威腹巻(くろいとおどしのはらまき)」と呼びます。黒一色の武張った感じの甲胄ですが、よろいを構成する「札板(さねいた)」と呼ばれる細長い板状の部材は、すべて革で作られ、その上から黒漆を塗っています。兜の前面、高くそびえる角状の飾りを「鍬形(くわがた)」と呼びますが、これも銅などの金属ではなく、革に金を塗ったものです。

 

背中で引き合わせ、背板を用いるなど、全体として、古式ゆかしい形式を踏襲していますが、本来、防御力を高めるため、金属を用いるはずのところが、すべて革で作られています。これは、防御力よりも、軽量化を優先した、何とも泰平の時代を象徴する甲胄なのです。

 

これは、敬親がまだ若い頃に作ったものと思われますが、よく知られているように、こうした日本伝統の甲胄は、西洋諸国の進んだ武器の前には無力でした。下関の敗戦でそれを痛感した長州(萩)藩が、急速に装備を洋式化し、さらには戦術も西洋の最新のものを取り入れることで、倒幕を成し遂げ、続く戊辰戦争に勝利した、というのが現在の通説のように思われます。

 

ところで、日々戦争が行われていた戦国時代、戦闘以上に問題視されたのが、町や村に対する略奪行為でした。略奪は、兵糧などを現地調達するため発生するのですが、それを避けるためには、支配地から多くの領民を徴発し、陣夫として使役して、本国から兵糧や武器を運ぶ必要がありました。戦争の規模や地域が拡大するにつれ、多数の領民が徴発されたのです。

 

陣夫の中には、戦闘に巻き込まれたり、苦役に耐えかねて逃亡する者もいたので、故郷に戻らない者も現れ、村の生産を脅かしました。特に豊臣秀吉の朝鮮出兵は、水夫(かこ)や陣夫を根こそぎ動員したので、毛利領内の村々に大きな被害を与えたことが知られています。

 

はたして戊辰戦争は、戦地や後方の村々に、いったいどのような影響を与えたのでしょう。