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第402回

2018.07.06

mr毛利家180706相模国警衛ノ幕令2018改革小写真は、幕府が長州(萩)藩主毛利敬親に与えた命令書です。右端の「松平大膳大夫」が敬親です。日付・差出人は記されていませんが、添えられた包紙に記された注記から、嘉永六年(一八五三)十一月十四日、江戸城内にて老中松平乗全から渡されたことがわかります。

 

内容は、江戸湾防衛のため、三浦半島に駐屯させていた彦根藩・忍藩を、より江戸に近い内海の羽田辺りに陣替えさせるため、その代わりに長州藩と熊本藩に三浦半島を防衛することを命じたものです。また同時に、柳川藩と岡山藩に対して、対岸の房総半島の防衛が命じられています。

 

田中誠二氏によると、このように一つの持ち場を、格式などが似通った二つの藩に命じるのは、対抗意識を持つ複数の藩を競わせることで、より任務に力を入れさせて、期待以上の成果を挙げさせようとする、幕府の手段だったそうです。

 

確かに、後に敬親が中将に任官された時、幕府から指定されたのは、熊本藩主細川氏の次席でした。また、長州藩が小倉藩を攻撃した時、救援に向かった九州諸藩が相次いで撤退してもなお、小倉藩と歩調を合わせて、最後まで長州藩と交戦したのは、肥後熊本藩だったそうです。長州藩にとって相模警衛は、熊本藩に劣ることは許されない任務でした。

 

一方この相模警衛は、財政的な負担が重く、幕府もそれを認め、近隣の村々を「預所」として、長州藩領同様に支配することを認めています。この措置がどれほどの効果をもたらしたかは、あまりよくわかっていません。ただ、田中誠二氏によると、この警衛により、それまで軽減されていた、家臣団からの知行召し上げである「馳走」が、五年に限り「半知」に戻されるといいます。これは、手取分の五割を返上する、当時としては上限と考えられる重いもので、敬親の藩主就任前後、財政が最も逼迫した時期の値に相当します。幕府の期待に応えた敬親の官職は、異例の上昇を遂げます。しかしそれは、こうした藩士の負担あってのものでした。