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第401回

2018.06.29

mr毛利家180629戊午密勅2018改革写真は、いわゆる「戊午密勅(ぼごのみっちょく)」です。「戊午密勅」とは、安政五年(一八五八)八月、京都防衛に関する孝明天皇の意を、長州(萩)藩に伝えたものです。

 

この年六月、幕府はアメリカと通商条約を結んでいました。これは、いわゆる「鎖国」を堅持し、外国人の進出を拒絶しようとした孝明天皇の意に反し、幕府が強行したものでした。こうした事態を憂慮する孝明天皇の意を受けて出されたのが、この「密勅」でした。

 

この「密勅」には、幕府の外交方針に反発する勢力もあることから、この年に入って国中で騒動の兆しがあること、外国人の進出が予想されるにもかかわらず、京都の守備は不十分であることを、特に憂慮し、密かに兵士を摂津(兵庫県南部・大阪府北部)に潜ませ、いざ事変が生じた場合、急遽内裏(だいり)を守衛するような忠節の仁はいないのか、と記されています。

 

道迫真吾氏によると、この密勅は、毛利家とも縁戚であった摂家の鷹司家からもたらされたものだそうです。これより先の安政五年六月、長州藩は、相模警衛の任を解かれ、開港場に指定されていた兵庫の警衛を命じられていましたから、これは長州藩に京都の御所の守衛を依頼したものとも考えられます。この時は、周布政之助が直ぐさま上京し、外国人を排斥する攘夷の非を説き、藩主の出京を断ったようです。

 

敬親の家督相続以来、長州藩は、甲州川々の普請、大坂城普請、大森警衛、相模警衛、そして兵庫警衛と、次々と幕府が命じる課役を、手際よく果たしていました。これは、この間並行して行っていた敬親の藩政改革が、それなりに成果を挙げていたからこそ、実現できたものと思われます。藩にとっては、連続する課役を喜んでいる場合ではありませんでしたが、こうした高い評価は、幕府のみならず、この時期になると朝廷・天皇にも共有されていたようです。この朝幕の高い評価を背景に、敬親は、このころから本格的な公武周旋に乗り出すのです。