山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第400回

2018.06.22

Print写真は、羽様西崖が描いた萩の風景画です。長州(萩)藩の御用を務めた絵師西崖は、萩城下町を囲むように流れる松本川・橋本川に沿った風景や、指月山や菊ヶ浜、さらには当時は奈古屋島と呼ばれた笠山など海からの風景を、三巻の巻物に丹念に描き、藩に納めたようです。

 

嘉永六年(一八五三)に描いたものですが、当時行われていた水軍演習の様子や、姥倉運河開削の様子も描かれ、各所に描かれた海岸や島の様子なども写実的で、現在でもなお萩の風景画として通用するほどのできだそうです。

 

画面右側、岸から長く突き出した石造りの突堤は、長州藩が軍艦を建造するため築造した恵美須ヶ鼻の造船所です。ここでは、長州藩初めての洋式帆船である丙辰丸などが造られ、この地域の近代化に果たした役割が顕著であることから、世界遺産にも登録されています。

 

嘉永六年といえば、六月にアメリカのペリーが浦賀に、七月にはロシアのプチャーチンが相次いで来航し、開国を求めた年です。長州藩も異国船の襲来はある程度覚悟していたのでしょう、この時期に、水軍演習や洋式帆船の建造など、海防の強化に努めたのです。

 

ただ一方で、実際に領国守衛にあたる家臣団は、連年の赤字財政を補填するため、給与の幾割かを藩に納める「馳走(ちそう)」に苦しんでいました。田中誠二氏によると、毛利敬親が、十三代藩主に就任する天保八年(一八三七)までは、極度の藩財政悪化を補うため、「半知(はんち)」とよばれる、給与半分を馳走にあてる状態が連年続いていたそうです。このような状況では、家臣団に、これ以上の軍事的な負担を命じることは無理でした。

 

敬親が、天保の藩政改革で実行した「公内借捌(くないしゃくさばき)」の目的の一つは、家臣団負債の軽減でした。それは、そこで生じた余力を、行財政改革や国産増産を推進する人材育成にあてさせるとともに、増大する軍事的な負担に向けさせるためのものだったのです。