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第399回

2018.06.15

Print写真は女性用の守刀を掛ける「刀掛(かたなかけ)」です。下部は物を納める引き出しになっています。全体は地を黒漆塗とし、蒔絵で松竹梅の絵を描く、豪華な品です。

 

この刀掛は、文政十二年(一八二九)、後に十二代藩主となる毛利斉広(なりとお)に、娘を嫁がせた将軍徳川家斉の正室広大院が、斉広の実父毛利斉煕(なりひろ)に与えたものです。

 

斉煕は長州(萩)藩の十代藩主でしたが、当時はすでに隠居し、江戸郊外の葛飾に豪邸を構えて、妻の三津姫(法鏡院)らと暮らしていました。この刀掛が、どのような成り行きで斉煕に渡されたのか、定かではありませんが、斉広の実父としての斉煕が、幕府から重視されていたことは間違いないように思われます。

 

この時期の藩主は、斉煕の従兄弟にあたる十一代の斉元でした。『もりのしげり』によれば、藩主となる二年前の文政五年(一八二二)には、斉広を養子に迎えていますから、斉元は、当初から斉広への繋ぎの藩主だったようです。その翌年には、斉煕の娘美和姫を正室に迎えていますから、いずれにしても、斉元の次は、斉煕の血筋が藩主となることは確定だったようです。

 

後に斉煕が記した「願文」によれば、将軍家の姫が斉広の妻になることに関しては、すでに斉煕藩主時代に決められていたらしく、斉元は決定の事情を知らされていなかったようです。また、天保一揆直後に、萩城で行った訓示では、藩財政が、一揆が起きるほどの状況とは知らなかった、とも述べていますから、斉元時代の藩政は、実質上隠居である大殿斉煕が仕切っていたことは間違いありません。刀掛を斉元ではなく斉煕に与えていることから、幕府も、このような藩の内情は知っていたのでしょう。

 

しかし一方で、体調不良のため江戸城にも登城できず、将軍に拝謁もできない隠居の身が、なぜ藩政の実権を握り続けられたのか、システム上の問題は必ずしも明らかではありません。