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第398回

2018.06.08

毛利家180608_梨地雲龍蒔絵鞍鐙2018改革398写真は、馬に乗る時に用いる馬具です。馬の背に乗せて人がまたがる鞍と、足を置く鐙(あぶみ)からなります。この鞍鐙は、厚く塗った黒漆に、菱文様を金銀の蒔絵で描き、扇面状に盛り上げた漆の上に、金銀で龍など目出度い絵を描く豪華なものです。居木(いぎ)とよばれる鞍の部分の裏に記された墨書から、江戸時代初期の作だとわかりますが、長州(萩)藩の十三代藩主毛利敬親が、この鞍鐙を幕府から拝領したのは、弘化三年(一八四六)のことでした。

 

この鞍鐙には、幕府から下賜を伝える達書と、敬親の仁政を讃える詩文が付属しています。これらによると、この鞍鐙拝領は、敬親の藩政が良好であることが認められたためのようです。

 

実際には、藩政がどう良好で、なぜ褒賞されたのか、具体的にはできません。ただ、田中誠二氏によると、敬親が初めて国入りした天保九年(一八三八)には総額九万貫目と、藩政史上最大に膨れ上がった借銀高が、鞍鐙拝領の翌弘化四年(一八四七)には六万貫目余まで圧縮されています。また、家督継承後すぐ天保九年には、幕府から甲州幕領の川普請を命じられ、無事やり遂げていますから、これらの実績が幕府から評価されたのでしょう。

 

ただ、敬親はこのあと、弘化四年に少将に任じられています。この時の幕府からの書面には、敬親にはまだ早いが特例として与えられること、以後の例にはならないことが注記されています。ここからは、鞍鐙の拝領、少将成は、敬親が、将軍家斉の娘婿である十二代藩主毛利斉広の養子であることにともなう、一連の優遇策であったとも考えられるのです。

 

同時に、嘉永元年(一八四八)には大坂城普請、嘉永六年(一八五三)には黒船対策として大森、さらには相模警衛を命じられています。幕府もこうした重要な課役は、それに耐えうる国力を持つ大名に任せたようですから、こうした幕府からの賦課負担も視野に入れて考えるならば、この鞍鐙は、長州藩・敬親にとって、思いのほか高いもらい物だったのかもしれません。