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第397回

2018.06.01

ys毛利家180601葛飾邸絵図写真は、葛飾邸の絵図です。葛飾邸とは、江戸時代の後期、寛政二年(一七九〇)に、長州(萩)藩の十代藩主毛利斉煕が、隠居後に暮らす屋敷として、江戸郊外に購入したものです。

 

田中誠二氏によると、この絵図は、記された人名などから、天保三年(一八三二)頃の様子を描いたものだそうです。敷地には鴨場とみられる池が二か所もあり、中央の池には、八つ橋など、歌枕としても知られるような古今の名所が再現されていたらしく、古典を好んだ斉煕の好みが反映された屋敷だったようです。

 

『もりのしげり』によると、表向きは三万五〇〇〇坪余、実際には弘化元年(一八四四)段階の調査で七万一四〇〇坪余、町並屋敷と抱地とを合わせると、一〇万二一五三坪にものぼる、広大な屋敷だったようです。あまりにも広大すぎて、もてあましたのでしょうか、調査の翌年、弘化二年(一八四五)十月には、約半分に相当する五万坪余が、代三九〇〇両で松江藩主の松平斉貴に売却されたそうです。

 

この絵図によると、この屋敷の中には、隠居斉煕と、その正室三津姫(法鏡院)だけではなく、側室の子である郷之助(信順)や八重姫らもともに暮らしていたことが分かります。斉煕は身近な人々と、この屋敷の中で隠居生活を送っていたわけですが、この屋敷の中で、斉煕と法鏡院が、子どもたちをどのように育てていたのかは、あまりよく分かっていません。

 

なお、田中誠二氏によると、この時期、後に十三代藩主となる敬親(猷之進)は、この葛飾邸ではなく、国元の萩で暮らしていたそうです。天保七年(一八三六)十二月、十二代藩主斉広の急死に伴い、急遽呼び出されるまで、敬親は萩で暮らしていたのです。江戸の葛飾邸で、藩の実権を握っていた大殿斉煕の下で、直接指導を受けていた斉広の異母弟郷之助ではなく、なぜ敬親だったのか、よく考えるときちんと説明はされていないように思われます。