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第395回

2018.05.18

Print写真は、毛利元就が用いたとされる「軍貝」です。南海でとれたほら貝を加工して、吹き口に、毛彫りで文様を描いた銀の金具をつけ、朱の網鎖を掛けています。元就所用とはいいますが、実際に元就がどう用いたのか、確実に元就の時代のものか、実のところ確証はありません。

 

秋山伸隆氏によると、毛利氏が国人領主から戦国大名へと転換を図ろうとしていた天文二十一・二年(一五五二・三)ごろ、毛利氏との間で軍役数を取り決めることができた譜代家臣は一七〇名、彼らが軍役で提供する「具足」とよばれる正規の兵士が、一〇五八両だったとされます。「具足」に供奉する人々や、毛利家当主直属の軍事力となる中間などもいますから、これだけ、というわけではありませんが、思いのほかその数は少なかったようです。

 

一方で元就は、天文十九年(一五五〇)に誅伐した井上一族のことを、「二百人三百人面付もあり、人数之五百千も持ち」と評しています。「面付」とは、おそらく完全装備で武装した武士のことを指すと思われます。また、防長両国を制覇した後、獲得した所領を家臣団に配分するにあたり、元就は佐東の辺りでまとめて所領を獲得し、五百も六百も家臣を抱えて、直属の家臣を養って、子息で当主の隆元の危機や、孫の輝元の非常の事態に備えたいとも述べています。

 

毛利氏領国の拡大につれ、戦闘地域も拡大し、毛利氏が動員する兵力も確かに多くなります。吉川元長は、天正六年(一五七八)に播磨上月城を攻めた毛利勢を、総勢三万と記しています。同十年(一五八二)に備中高松城を救援に向かった熊谷信直は、毛利軍の勢衆を一万と記しています。

 

しかし、元就が実際に戦場を駆け回っていた十六世紀前半の段階は、軍記物などに描かれるような大規模な軍事編成ではなく、せいぜい数百人単位の軍団が寄り集まって戦うものだったようです。室町期の合戦では、優勢に戦いを進めた大名が、しばしばあっけなく討ち死にしています。その謎も、このような軍事編成を背景に考えなくては、合理的に説明できないのです。