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第394回

2018.05.11

Print写真は、毛利元就が用いたとされる「軍配(ぐんばい)」です。軍配とは、正式には「軍配団扇(うちわ)」といい、もともとは軍師が、軍勢をあれこれと配置するため、用いた道具だといいます。古いものには星宿などが描かれ、かなり呪術めいたものだったようです。

 

この軍配は、総体に金箔、握りに革を貼ったものですが、その形状から、かなり後世のもののように思われ、果たして、伝承どおり元就のものかは、確証が持てません。

 

元就は、戦国きっての智将として、幾多の戦闘を乗り越えたとされます。確かに元就は頭もよく、同時代のどの武将と比較しても、その戦ぶりは際立っています。

 

ただそれは、実際の戦場で、どう駆け引きするかという小さなことではなかったようです。天文九年(一五四〇)から十年の郡山合戦で、元就は、攻め寄せた尼子氏の大軍を、見事に撃破しました。元就は後に、この時の勝利は、宍戸氏あってと感謝の念を述べています。

 

宍戸氏とは、毛利氏の所領吉田荘の北東、甲立の五龍城(現広島県安芸高田市)を本拠とする国人領主で、長年毛利氏と不仲でした。元就の父弘元は、宍戸氏を敵に回さぬよう遺言したようですが、元就の兄興元は、それに背いて宍戸氏と戦い、決着をつけないまま死去しました。

 

家督を継いだ元就は、さっそく宍戸氏との関係改善を図ります。北隣の高橋氏から奪った所領の一部を宍戸氏に与えて信頼を醸成し、天文三年(一五三四)には、宍戸氏の当主隆家と元就次女との婚姻を実現させました。六年後、宍戸氏が、毛利氏の縁戚として、出雲方面から吉田荘への進攻を計る尼子氏の軍勢を撃退したのは、その最大の成果でした。

 

元就は、この時の恩を終生忘れませんでした。宍戸氏に嫁いだ娘と次男元春の仲が悪くなった時も、この時のことを示して、宍戸氏との縁が途切れないよう、三男の隆景に両者を取り持てと命じています。こうした先見の明と気遣いこそ、智将元就の真骨頂だったのです。