山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第393回

2018.04.27

Print写真は、毛利元就所用と伝えられる刀の拵(こしらえ)です。拵とは、鞘(さや)や柄(つか)など、刀身を包む外装の総称ですが、この拵の刀身は、三原物とされるものです。

 

いわゆる脇差(わきざし)ですが、馬上で手綱を引きながらでも振るうことができるように、柄は短く、握りやすいように中程が少し窪んでいるところが実戦的だとされます。実際に、元就が戦場において、馬上で手勢を指揮するため、佩いていたのでしょうか、ただ黒々とした漆を厚く塗っただけの、余分な飾りは用いず、実用本位で、無骨な感さえする拵です。

 

ドラマや小説のせいでしょうか、戦国の合戦といえば、華々しく名乗りをあげて競り合う様子や、深謀遠慮の限りを尽くし、相手の意表を突くようなやりとりが脳裏に浮かびます。しかし、実際の資料を読む限り、そうした華々しい行為は、ほんの一場面にすぎなかったようです。

 

たとえば、天文九年(一五四〇)に、元就の居城郡山城に押し寄せた尼子詮久(晴久)に対して元就は、籠城戦を敢行しました。尼子氏は、当初郡山城下の町屋に放火して、元就を誘い出そうとしますが、元就の防御が固く、成果はあまりなかったようです。

 

そこで晴久は、包囲網を完成させ、元就を孤立させようと、吉田盆地の南側を迂回する部隊を送り込みます。しかし、竹原や東西条(現東広島市)から、元就を救援するため駆けつけた大内氏の援軍と合流した、元就手勢の反撃に遭い、包囲に失敗しました。

 

その後晴久は、持久戦に転じます。その大軍を前に、元就がとった戦術は、「通路切搦(きりからめ)」でした。それは、尼子軍の背後、少数の毛利氏にとって地形上有利な場所を、あちこちと選んで、少人数で突き、相手の後方を攪乱し、兵糧を奪い、山陰との連絡を遮断する方法でした。こうした作戦を二か月近くも繰り返し、尼子軍の疲労が頂点に達した頃、ようやく到着した、陶隆房(晴賢)率いる大内氏の主力と協力して、一挙に晴久を敗走させたのです。