山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第392回

2018.04.20

Print写真は、毛利元就所用の打刀、長さが少し短いので、いわゆる脇差(わきざし)です。銘はありませんが、備後国三原の作であるとされています。刃文(はもん)もおとなしく、特に飾り立てたところはありません。合理的な思考を好む元就らしい実用本位の刀のようです。

 

よく一般に、「刀は武士の魂」といいますが、確かに刀で表現される軍事力は、武士たちが世の中や所領を治める、最も根本的な基盤でした。儒教の道徳が行き渡った江戸時代の中期以降こそ、武士たちが支配のための軍事力をむき出しにすることは、稀になりましたが、初期の武士たちは、かなり残忍な性格を持っていたようです。

 

前九年の役で、清和源氏の嫡流源頼義に敗れた、奥州藤原氏の祖藤原経清は、捕縛された後に、苦痛を長引かせるために、わざと錆びた刀で頸をのこぎり引きにされたといいます。

 

また、鎌倉時代末期に紀伊国阿弖河荘(あてがわのしょう・現和歌山県有田川町)の荘民たちが、地頭湯浅宗親の非道を、領主高野山に訴えた著名な訴状には、「ミミ(耳)ヲキリ ハナ(鼻)ヲソギ カミ(髪)ヲキリテアマ(尼)ニナシテ」と、荘民の妻子の身体を痛めつけて、逃亡した荘民の耕地を残された者に耕作させようとした様子が記されています。

 

さすがにそれから二百年を経た、毛利元就の時代には、ここまで残忍ではなかったようです。それでも、元就自身も、「あさ手なること」とは自嘲しながら、防長攻めの郷村調略にあたって、あまり協力的でない村落に対しては、見せしめに人を一人二人討ち果たし、家の三軒五軒でも焼き討ちして交渉を有利に進めよと命じています。それでも村が毛利方につかない場合は、正規の「勢衆」を派遣して、村民を「しかと討ち果たせ」とも命じています。また、敵方となった村落・町場・寺社に対しては、放火や略奪などの「狼藉」も容認したようですから、軍事力をむき出しにした武士のあり方は、かなり後々まで残忍な部分をもっていたようです。