山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第391回

2018.04.13

Print写真は、毛利家が、近代に飾り付けていた「端午飾り」です。若殿様の初陣をイメージしたものか、毛利家の家紋「一に三つ星」を染め抜いた幔幕(まんまく)を張り、その内側に少年用の甲胄、甲胄の前には、「勝栗」など、出陣の儀式に用いられるものを三方に並べています。

 

そもそもが戦士階級から出発した武士にとって、戦に参加することは、とても重要なことであったようです。毛利元就は、石見国の益田藤兼が服属するとの報告を受けて、益田氏の宿敵であった津和野の吉見正頼が「命を的に懸け」て毛利氏に味方してくれたのは何のためだったかと、藤兼の降伏を、いとも簡単に受け入れてしまった、次男の吉川元春を叱責しています。

 

さらに元就は、豊後の大友宗麟との戦いでは、同盟者としてわざわざ九州に出兵し、異郷の戦場で戦っている備芸石の国衆に対する「儀理」を果たすため、すでに七十歳を超え、体調も崩して病に伏せっていたにもかかわらず、下関まで出陣しています。

 

また、織田信長との戦争が、佳境に入ったころ、毛利氏を代表して最前線で指揮を執っていた「両川」の一翼、吉川元春は、同じく弟の小早川隆景とともに、毛利氏の総帥である元就の孫輝元に対して、不利な状況にもかかわらず、毛利氏に味方している国衆に対して気遣いをみせること、信長勢を防ぐために輝元自ら出馬することを、きつく訴えています。

 

このとき元春は、国衆が毛利氏に味方するのは、国衆に誠意を示した元就に対する恩返しと考えていたようです。したがって、実績のない輝元が、大大名毛利氏の当主として、上から居丈高に命令するようでは、この先の戦争を戦い抜くことはできない、と断言さえしています。

 

武士にとって、一族滅亡を避け、家名を後世に伝えるためには、なんとしても戦争に勝つことが必要でした。そのためには、大大名となった毛利氏も、小なりとはいえ、地域に根を張り、地域の存続を目指して奮闘していた、在地の武士たちへの配慮は欠かせなかったのです。