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第390回

2018.04.06

毛利家180406黒塗沢唐草瀉紋散蒔絵雛道具yo写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の夫人都美姫(とみひめ)所用の雛道具です。すべての道具に、黒々とした漆を塗り、その上に金の蒔絵で唐草文様と、毛利家の家紋である「沢瀉(おもだか)」を描いているのが特徴です。

 

この雛道具は、他のどの雛道具よりも大型で、毛利家の家紋も描かれています。また、金具も、すべてが黄銅で作られ、一つ一つに唐草文様が毛彫りで描かれた、実物の婚礼道具と全く同じに作られていますので、婚礼道具の雛形として作られたものと思われます。

 

通常、婚礼道具の雛形であれば、嫁ぎ先の家紋と、実家の家紋をともに描き、両家の和合を象徴するものですが、都美姫のこの雛道具には、毛利宗家の「沢瀉」の家紋しか描かれていません。それは、都美姫と敬親の結婚が、通常の婚礼とは異なっていたからでしょう。都美姫は、表向きは部屋住の一門、毛利親安の娘と、幕府に届けられましたが、実際には十二代藩主毛利斉広(なりとお)の一人娘で、実質的には夫の敬親の方が婿養子のようなものだったのです。

 

敬親自身が家臣に訓示していますが、斉広の養子として、敬親が家督を継ぐという事態は、敬親自身にとっても寝耳に水の出来事だったようです。十一代藩主毛利斉元の長子ではありましたが、斉元自身が、斉広襲封までの中継ぎであったこともあり、敬親は早くから萩に戻され、次期藩主の見込みも、他の大名家の養子となる可能性さえ、ほぼなかったのでしょう。

 

都美姫が、どうやって敬親の正室に決められたのかは、まだよく分かっていません。敬親の父斉元も、中継ぎの藩主となるにあたり、前藩主の娘を正室に迎えていますから、それに倣ったのかもしれません。実のところ、十二代藩主毛利斉広の一人娘であった都美姫が、敬親の正室となるまでに、どう養育されたのかもよくは分かっていません。激動の幕末を乗り切った彼女らが、人格の形成期に、どのような幼少期を送ったかは、興味の尽きないところなのですが。