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第389回

2018.03.30

毛利家180330_雛道具写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の正室、都美姫(とみひめ)所用の雛道具です。この雛道具は、小さくとも精巧な細工で、江戸後期にもてはやされた、江戸は上野池之端に店を構えた七沢屋(ななさわや)の作と考えられています。

 

七沢屋の雛道具は、化政期以降、幕末にかけて、特に大御所徳川家斉時代の大奥などで愛好されたといいます。現在では、御三卿の一つ田安斉匡の娘を室に迎えた柳川藩立花家、同じく田安家から妻を迎えた庄内藩酒井家などに、遺品があるようです。

 

毛利家のこの雛道具は、敬親の夫人都美姫のものとされていますが、都美姫の母は、十二代藩主毛利斉広の正室和姫(かずひめ)、徳川家斉の娘でした。

 

また、都美姫の祖母、すなわち斉広の母は法鏡院・三津姫(みつひめ)といいます。彼女は、鳥取藩主池田家から、十代藩主毛利斉煕の正室として、毛利家に嫁いできました。三津姫の父池田治道を手篤く育てたのは、治道の母である田安宗武の四女仲姫だったといいます。毛利斉煕の母にあたる、八代藩主毛利治親の正室は、田安宗武の五女節姫(ときひめ)でしたから、斉煕が、それまで毛利家との縁があまりなかった鳥取池田家から正室を迎えたのは、三津姫が、田安家の血縁であったことが重要視されたように思われます。

 

そもそも田安家との縁組は、徳川家との縁続きになることで、家の格をあげようとした治親の父毛利重就の意向でした。節姫の御殿は、将軍家の姫君の格式で作られていたとされ、縁組の効果か、重就は初代藩主以来の少将任官を実現させていますから、以後も毛利家は、この田安家との縁を、特に大切にしたようです。

 

ただ、そうすると、この雛道具を作らせたのが、果たして都美姫なのか、田安家ゆかりの節姫や三津姫、あるいは大奥出身の和姫の可能性も出てくるので、却って悩ましいところです。