山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第388回

2018.03.23

毛利家180323檜扇2017雛写真は、公家の女性が、正装のいわゆる「十二単(じゅうにひとえ)」を着用したときに用いる檜扇(ひおうぎ)です。檜の薄板を綴り合わせた扇面には、絵の具もたっぷりと、流水に梅竹の文様を描いています。親骨には松の飾りと六色の長い色糸が付けられています。

 

この檜扇は、有栖川織仁親王の娘栄宮(はるのみや)が、長州(萩)藩の九代藩主毛利斉房に嫁いだ際の、婚礼道具の一つとして遺されたものです。同宮は、毛利家に嫁いだ後、幸子(ゆきこ)と名を改め、斉房の死後は落飾して貞操院と称しました。

 

貞操院の夫であった毛利斉房は、天明二年(一七八二)十一月に、八代藩主毛利治親の長男として、江戸の下屋敷「麻布邸」で誕生しました。『もりのしげり』によると、生まれて間もない天明三年(一七八三)三月には、正室節姫(ときひめ)の子として幕府に届けられたようです。実際には側室小泉氏の子だったようですが、生まれて早々に、正室の子として幕府に届けられていますので、早くから九代藩主の座に就くことが望まれていたのでしょう。

 

斉房の誕生に先立つ天明二年八月、長らく藩主の座にあって、さまざまな藩政改革を実施した七代藩主毛利重就(しげたか)が、加齢に伴う体調不良を理由に、隠居を認められました。重就の隠居に伴い、治親が八代藩主になったのです。重就は、帰国し、国元で療養することとなりましたので、さまざまな残務を処理した後、天明三年三月に、国元に向けて出発しています。一連の処理には、斉房の出生届も含まれていたのでしょう。

 

重就の長寿を願う勧進和歌などに、幼年ながら名を連ねていることからも、斉房の家督継承は、早くに決められていたと思われます。数々の改革を実施した毛利重就でしたが、その施策が以後も継続されるかは、後継者の判断次第でした。そこで重就は、後継者を早く決め、その教育を徹底させることによって、自らの施策を継続させようと図ったのだと思われます。