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第387回

2018.03.16

Print写真は、長州(萩)藩の第九代藩主毛利斉房に嫁いだ貞操院の「袿(うちき)」です。

 

「袿」とは、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)など、公家女性の礼装の上着の部分に相当します。礼装の上着らしく、縁起のよい亀甲文様を地文様とした、赤地の浮線綾(ふせんりょう)と呼ばれる絹織物に、白糸で大きな丸文様を全体にあしらった、贅沢で豪華な逸品です。

 

袖口や裾には、「十二単」の名にふさわしく、重ね着しているかのように見せるための、色目の裂地(きれじ)が見えています。丈に比して、袖幅がやや短く仕立てられているので、重ね着した下の衣裳を、袿の下から見せられるように作られた、「小袿(こうちき)」のようです。

 

「小袿」は、「袿」を略したもので、十二単と呼ばれる女房装束のうちでも略装にあたるようですが、この袿は、貞操院が、斉房に嫁いだ際の、婚礼道具一式として、桧扇などとともに、貞操院の実家有栖川宮家の家紋が記された衣装箱に一括して保存されているものです。

 

貞操院は、公家時代の初名は同宮(あつのみや)、後には栄宮(はるのみや)、斉房に嫁いでから幸子(ゆきこ)と名乗っています。貞操院は、夫の斉房が亡くなった以後の名乗りです。父親は、有栖川宮家の織仁親王ですが、母は鷹司輔平の娘房君でした。輔平の妻惟保君(いおぎみ)は、斉房の祖父、七代藩主毛利重就でしたから、一大名にすぎない斉房の妻に、世襲親王家の一つ有栖川宮家より妻を迎えることができたのは、この血縁によるものなのでしょう。

 

天明三年(一七八三)、隠居により国元に戻ることとなった重就は、帰国の途上伏見に駕籠を留め、「真の」お忍びで京都に入り、生まれて間もない同宮(貞操院)と、姉の孚希宮(ふけのみや)との対面を遂げています。あるいは、どちらかを毛利家の正室に迎える心づもりがあったのかも知れません。重就は、将軍家の姫君を嫡男治親の妻に迎えていましたから、次は公家の名門から妻を迎え、毛利家の格式を一段高めようとしていたのでしょうか。