山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第386回

2018.03.09

Print写真は、江戸時代後半の絵師である松村景文が描いた「立雛図(たちびなず)」です。立雛とは、現在一般的にみられる座雛に先立つ時代に作られていた、素朴で愛らしい雛人形です。

 

お雛さまといえば、男女一対の雛人形とされることが一般的です。もともと雛人形の「雛」とは小さくかわいらしいものを指す言葉でした。そもそもは雛遊びに用いる人形と、守りとして、幼子に贈られた人形が一体となったのが雛人形のようです。

 

この立雛や、雛壇に飾られる雛人形のうち、 主役になる男女一対の雛人形を「内裏雛」といいます。もともとは、一体だけの人形が、夫婦を模して男女一対の人形とされたときに、貴顕の婚礼をイメージさせるために、「天皇」の住居である「内裏」の名を冠したとされます。

 

徳川将軍を頂点とする体制を築いた幕府は、天皇や朝廷が将軍とならぶ権威となり、幕府にとっての脅威となることを恐れていました。そのため、天皇を京都の御所内にとどめ、京都に所司代を置き、「禁中並公家諸法度」を定めて統制を強めるとともに、諸大名に対しても、原則として、むやみに京都に立ち入ることを認めていませんでした。

 

しかし、社会が安定した江戸時代中期以降、和歌や蹴鞠、あるいは装束など、公家の文化を大名たちが享受し、自らの権威高揚に利用する過程で、『源氏物語』への理解と憧憬など、文化的な一体化が進むとともに、大名たちは、自らの権威を高めるため、公家との交流を望むようになります。「内裏」が商標に用いられることも、こうした流れと無縁ではないのでしょう。

 

毛利家の場合、七代藩主となった毛利重就は、娘を時の朝廷の実力者である鷹司輔平に嫁がせて、公家社会との関わりを深くしています。重就とその子の治親は、和歌などを通じて、輔平と交流を重ねていたようです。こうした文化的な関係が、幕末にみられるような政治的な関係に、どの契機で、どのように転化するのか、気になるところです。