山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第385回

2018.03.02

Print写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親の正室であった都美姫(とみひめ)所用の「有職雛(ゆうそくびな)」です。御所の紫宸殿(ししんでん)を模した御殿に男雛と女雛を据え、公家や官女、楽人や白丁らあわせて三十体以上の人形が、賑々しく仕える、江戸時代末期ならではの派手な雛人形です。

 

都美姫は、十二代藩主毛利斉広(なりとお)の長女として天保四年(一八三三)に生まれました。天保七年(一八三六)に、斉広がわずか二十三歳で亡くなったため、彼女は唯一斉広の血を引く子となりました。斉広には男子がいませんでしたから、急遽部屋住であった敬親が養子とされ、十三代藩主の地位につくと、都美姫は敬親の妻に迎えられました。ただ、『もりのしげり』によると、すでに敬親は斉広の養子として幕府に認められていましたから、都美姫を斉広の子として届けるわけにはいかず、部屋住の一族毛利親安の子として届けられたようです。

 

藩の体制が整った江戸時代と異なり、血筋が重視された戦国期までは、たとえ女性であっても、家を継ぐことは認められていました。毛利元就の七男元政は、男子のいなかった天野元定の娘と結婚して天野家に婿入りしています。このとき、元政の結婚を認めた毛利元就とその孫で当主の輝元は、元政ではなく、元定の娘に家督の相続を認めています。政略結婚が当たり前の戦国時代、実家同士の仲違いにより、離婚することは日常茶飯でしたから、家督を聟に譲ってしまうと、聟に財産を奪われる恐れがあり、女性であっても、血のつながった実子に家督を譲り、聟はその家の血を引く子どもが家督を継ぐまでの軍役の代行者とされました。そのため、離縁と財産をめぐって、妻や舅と聟が、血みどろの抗争を繰り広げる場合もあったのです。

 

敬親は、男子の世襲が確立していた幕末の養子ですから、藩主としての地位が揺らぐことはなかったと思われますが、家を守る聟としての重圧は、察して余るものがあります。