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第382回

2018.02.09

Print写真は、幕末の長州(萩)藩主毛利敬親が十歳の時にしたためた書です。「秋声万古竹」とは、中国盛唐の詩人李頎(りき)の詩「望秦川」(しんせんをのぞむ)の一節だそうです。

 

毛利敬親は、文政二年(一八一九)長州藩の十一代藩主毛利斉元の長子として、江戸麻布邸で生まれました。藩主の長子ではありましたが、早くから萩に戻されたらしく、田中誠二氏によると、天保三年(一八三二)の「仕組」とよばれる財政改革時には、すでに萩にいたことが明らかにされています。またこの時に実施された「仕渡銀」とよばれる配当の額からすれば、敬親の地位はかなり低く、江戸に集められた前藩主毛利斉煕の子らとは、明らかに差をつけられていました。父の斉元が、斉煕の子で将軍徳川家斉の聟となった斉広(なりとお)の藩主就任までの中継ぎであったこと、あるいは敬親自身が、斉煕の娘である正室美和姫の実子でなかったためか、理由は定かではありませんが、この段階では、敬親が藩主になる可能性はほぼ皆無だったように思われます。

 

おそらく敬親は、十代の多感な時期を、江戸ではなく萩で過ごしたのでしょう。十九世紀前半の長州藩では、十代藩主斉煕の家格上昇政策に要する費用と、家格の上昇に伴う豪奢な生活が、藩財政を圧迫していました。財政赤字のしわ寄せは、当然のことながら、貢租を取り立てる国元に寄せられました。天保二年(一八三一)に発生した大一揆も、こうした赤字財政補填のために、大量に発行した藩札の価値が大暴落したこと、藩札を利用して強行された産物取立政策が、ともに領民の生活を破壊的に苦しめたことが要因であったとされています。

 

赤字財政補填のため、長らく「半知」とよばれる、給付削減を受けた藩士たちの困窮も、この時期には極まっていました。多感な時期を、国元萩で過ごした敬親が、こうした領内の空気をどのように受け止めて成長したのか、そのあたりの事情はまだ明らかではないようです。