山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第381回

2018.02.02

毛利家180202討幕の密勅yo写真は、慶応三年(一八六七)十月十四日付で、朝廷から長州(萩)藩主毛利敬親・定広(元徳)父子に下された、江戸幕府追討の命令書、いわゆる「討幕の密勅」です。

 

これより先、薩摩(鹿児島)藩は、幕府と戦争を続ける長州藩との間に同盟を結んでいました。『毛利家文庫』中の「三藩連合東上一件」によると、この両藩の間では、九月頃から武力倒幕の相談がなされていたようです。

 

当初の予定では、薩摩藩兵と三田尻で合流した後、長州藩の船と、薩摩藩から借用した船一艘に藩兵を同乗させて、さらに安芸国の御手洗(広島県呉市)で芸州(広島)藩の船と合流して大坂に上陸、大坂城の将軍徳川慶喜を攻撃する予定だったようです。なお、このとき、大坂城攻撃に先立ち、「京都での一挙」を成功させることが重要だとしていますので、どうもこのときの挙兵は、まず孝明天皇の跡を継いだばかりの明治天皇を掌中に収め、その上で、天皇の意向にそって倒幕を実施する、という大義名分をかざすつもりだったと思われます。

 

この計画そのものは、薩摩藩の船が、予定どおりに三田尻に来航しなかったため、決行には至りませんでした。薩摩藩内部においても、大久保利通らが中心になって進める性急な倒幕には批判的な勢力も居たのでしょうか、一枚岩にまとまるという状況ではなかったようです。長州側では、すでに、重臣右田毛利親信(内匠)を指揮官とする藩兵を、三田尻に集結させていましたが、薩摩藩の遅れにより、出撃の機を逃すとともに、同盟そのものも、幕府・諸藩の知るところとなり、頓挫したようです。

 

その後、薩摩・長州・芸州の三藩は、その後の善処策を話し合い、それでもなお、苦境にある長州藩を救い、幕府優勢の政治的な局面を打開するためには、倒幕しかないという結論に至り、出されたのがこの「討幕の密勅」だったのです。