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第380回

2018.01.26

毛利家180126_寿老人図写真は、江戸前期の幕府御用絵師であった狩野常信が描いた「寿老人図」です。寿老人とは、いわゆる「七福神」の一人で、この絵のように、長い頭の老人の姿で描かれ、巻物を捧げた杖を持ち、鹿に乗って現れるとされました。

 

この「寿老人図」は掛軸ですが、この絵を中心に、左右に「松に鶴」、「竹に鶴」を描いた掛軸が添えられるように作られています。松も竹も鶴も、寿老人同様に長寿・永遠を示す画題ですから、三幅ともに長寿・永遠を意味する、正月などにふさわしいおめでたい絵のようです。

 

この絵は、絵が描かれた本紙の部分だけでも一メートルを超える大きなものです。仏像の配置にならい、正式な場では、先の三幅を揃って掛けるようにされていたと思われますので、これを掛けるには、城や江戸屋敷の大広間など、大きな床の間が必要だったことでしょう。

 

ところで、時代劇などでおなじみの、将軍や大名が、家臣たちを集めて謁見を果たす「大広間」ですが、こうした巨大建築が出現するのは、概して豊臣秀吉による天下統一以降だと考えてよさそうです。現在のところ、戦国大名の本拠などの発掘成果を眺めてみても、時代劇などで見られるような大きな御殿建築は確認できないようです。

 

「毛利家文書」中の、戦国期のものと思われる「正月佳例書」には、正月二日に親類衆と一部の外様衆、五日に外様衆、六日に郡山城麓廻りの寺家衆、八日に惣郷の寺家衆、九日に佐東衆、十日に国衆の使者、十三日に宍戸氏ならびに中郡衆と、細かく挨拶の日取りが定められています。この資料には具体的な挨拶の段取りは記されていません。ただ、広い建物がないのですから、一斉の対面ではなく、次々とやってくる来客と順次挨拶を交わしていたのでしょう。

 

ドラマで見るような「一斉に」というのは、将軍や大名が隔絶した権力を持つようになる、江戸時代の姿で、戦国期の大名と家臣の関係は、それこそ親疎遠近まちまちだったのです。