山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第379回

2018.01.19

67130004(正月飾り・2017正月・㈱地域情報新聞『ほっぷ』379)写真は、毛利家伝来の「正月飾り」です。毛利元就ゆかりの「御佳例吉甲胄」の前に据えられているのは「日の丸軍扇」と「御佳例盃」です。このうち「御佳例盃」は、総体を朱塗とし、内側を金に塗った、正月にふさわしい目出度い雰囲気の盃です。

 

伝承では、この盃に注がれた酒を、重臣の福原貞俊が飲み干したといいます。南北朝期に毛利惣領家から分かれた福原氏は、「吉田殿」と呼ばれる惣領家に近く、元就の母は、福原氏から嫁いだ女性でした。貞俊は、元就の従兄弟の子にあたり、元就の死後、遺された元就の孫輝元を、元就の子の吉川元春・小早川隆景らとともに補佐した人物です。

 

戦国大名化を遂げた毛利惣領家を、吉川元春・小早川隆景のいわゆる「両川」が支える体制を、一般に「毛利両川体制」といいますが、実際に、元就の死後輝元を支えていたのは、この「両川」に、福原貞俊・口羽通良を加えた「御四人」と呼ばれる人々でした。福原・口羽の両名は、毛利家中きっての有力者であり、一度毛利家を出た「両川」が、毛利家中のことまで口出しすることに、反感を抱く家中をなだめる役割が期待されていたようです。

 

余命幾ばくもないことを悟った元就は、輝元の行く末を案じ、貞俊に補佐役を依頼しています。その時元就は、貞俊を「正路」で「表裏」がなく、いかなる時も「よろけ」ることなく元就に味方したと、高く評しています。しかし、貞俊は、いったんは元就の要請を断りました。若年の当主の補佐という、火中の栗を拾わない貞俊の姿勢に、元就は、毛利家の危機にあたって、いったいどう考えているのか、と詰問し、惣領家への奉仕を求めています。

 

福原貞俊は、この時代の毛利家中にあって、最も惣領家に近く、忠誠心も篤い人物の一人でした。それでなお、保身を優先していたのです。こうした海千山千の家中の上に立ち、若年の輝元が、大国毛利家の舵を取ることは、生易しいことではありませんでした。