山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第378回

2018.01.12

毛利家180112_梨地菊桐紋蒔絵糸巻太刀拵写真は、毛利家の「正月飾り」にも用いられている「御重代太刀(ごじゅうだいたち)」の拵(こしらえ)です。「御重代」とは、幾代にもわたり大切にしなくてはならない、という意味で、長州(萩)藩主毛利家にとって、家宝とされたことを意味します。

 

この太刀拵は、その刀身とともに、長州藩の初代藩主毛利秀就が、寛永十一年(一六三四)、朝廷から拝領したものだとされています。「糸巻太刀」とは、拵の柄(つか)と、鞘をつり下げる緒がかかる部分に、補強と装飾のために糸を巻いたことから、そうよばれています。もともとは実用本位の太刀でしたが、桃山期以降、武家の正装時に用いられたようです。鞘に金箔で菊と桐の紋が表され、この太刀が朝廷からの拝領品であることが示されています。

 

さて、一般に長州藩の初代藩主は秀就とされます。秀就の父輝元は、慶長五年(一六〇〇)に、関ヶ原敗戦の責任をとって薙髪し、幻庵宗瑞と名のります。一般的には、このとき家督も、五歳の秀就に譲り、以後輝元は「隠居」として、秀就を後見したと理解されています。

 

しかし実際には、防長移封の後も、輝元は、家臣に知行や官職を与え、家臣の子息の元服には、自らの一字を与えています。これらはいずれも、当主が行うものであり、輝元は、関ヶ原後も当主であり続けたと考えなくてはなりません。

 

田中誠二氏によると、こうした書類に秀就が署判するようになるのは、初入国を果たした翌年、慶長十七年(一六一二)以降とされています。ただしそれは、父輝元との連署でした。秀就に家督が完全に委譲されるのは、輝元に老いの衰えが目立ち始めた元和九年(一六二三)まで下るとされます。関ヶ原の敗戦後も、輝元は、実に長い間当主であり続けたのです。

 

なぜ長州藩の初代藩主が、輝元ではなく、秀就とされたのか、についてはいろいろな理由が考えられるようですが、今のところ、はっきりとした決め手はないようです。