山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第374回

2017.12.08

mt毛利家171208A小早川隆景書状案写真は、小早川隆景が、毛利輝元の側近粟屋元種に宛てた書状の写です。

 

内容は、天正六年(一五七八)十月六日に、毛利氏の水軍が淀川河口で織田信長の水軍を打ち破って石山本願寺と連絡を取ったこと、織田方の有力部将荒木村重が、毛利氏の味方となるために、人質を差し出したこと、織田信長が二万の大軍を率いて播磨国(兵庫県)に出陣する見込みであること、播磨においては御着城(兵庫県姫路市)の小寺氏以下、ほとんどが毛利氏の味方となったこと、残る勢力も岡山を本拠とする宇喜多直家が滅ぼす予定であることなどを報じて、この機会に、領国の総力を挙げて兵を集め、信長に打撃を与えて、この戦争をいったん休戦にして、領国に余裕をもたらしたいと提案しています。

 

輝元の側近宛になっていますが、実質的にこれは、輝元への提案といえるでしょう。

 

隆景は、兄の吉川元春とともに、毛利元就の死後、毛利氏の家督を継いだ孫の輝元を支えた「両川」として知られています。天正四年(一五七六)に将軍足利義昭を迎え、諸国の大名たちから連絡を寄せられ、一挙に知名度が上がったこと、緒戦の連勝で、まだ若年で経験の乏しい輝元や、その側近たちは浮かれてしまったようです。こうした輝元らの態度を、隆景は早くから懸念していたらしく、幾度か意見もしていたようです。このときもまた、信長との戦いをいかに有利な段階で止めるか、大胆で素早い判断を求めたようですが、輝元や側近らの判断は鈍く、また信長の妨害にもより、この好機が活かされることはありませんでした。

 

若年の輝元を、老練な「両川」が支える「毛利両川体制」は、日常的に離反が見られた戦国期にあって、まれに見る成功を収めた体制として知られています。しかし、集団指導体制ゆえの、意見調整の難しさは、ややもすると行動の遅さ、判断の鈍さにつながり、信長の部将羽柴秀吉の迅速な行動によって、毛利氏は、徐々に苦戦に追い込まれるようになるのです。