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第372回

2017.11.24

毛利家171124毛利元就像写真は、毛利元就の肖像画です。教科書やテレビにもよく取り上げられているので、おそらくは、今、最もよく知られた毛利元就の風貌でないかと思われます。

 

肖像の上に記された賛によると、これは、元就の菩提寺洞春寺に収めるため、孫の輝元の願いで作られたものだそうです。おそらくは、輝元の記憶が多分に含まれた容貌なのでしょう。

 

一代で戦国大名にのし上がった元就にふさわしく、烏帽子大紋を着用した、武家としての正装の姿です。額には深い皺が刻まれ、戦場で日差しに照らされたのでしょうか、顔色は赤黒く、所々にしみさえあるように見えます。烏帽子で隠れて見えにくいのですが、髪もやや少なくなっているようですし、頬から顎にかけて蓄えられた豊かなひげにも白いものが目立つように、老境に達してはいましたが、まだ闊達に活躍していた時期の、まさに輝元の記憶の中で、生き生きと活躍していた頃の、元就の姿が描かれているように思われます。

 

元就の次男元春によると、厳格な元就の前に出ると、言葉を発することもできなくなったそうです。この点については、輝元も、後年の述懐で、教育が厳しかったと触れています。

 

確かに、輝元への、元就の指導は徹底したものだったようです。酒を飲み過ぎないようにとか、親しい家臣といえど、機密に属することは気軽に打ち明けてはならないなど、政務から生活全般にわたって、厳しく指導されていたようです。

 

元就が、厳島合戦で勝利したのは、輝元が生まれて間もない時期でした。大内氏を滅ぼして、大名へとのし上がった時、輝元はまだ五歳でした。父祖の苦労を知らず、若くして当主となった輝元に対し、元就は何かと期待をかけていました。不安もひとしおで、指導も厳しくなりがちだったのでしょう。輝元の記憶の中の元就のまなざしが、こちらを射すくめるように鋭いのは、輝元にとって、元就が厳しい祖父であったことを物語るように思われるのです。