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第369回

2017.11.03

st毛利家171103四季山水図写真は、雪舟が描いた「四季山水図(山水長巻)」の一部です。この絵は、巻末に記された款記(かんき)によると、文明十八年(一四八六)、雪舟が六十七歳の時に描いたものです。

 

この絵が描かれた事情は、今なおはっきりとはしませんが、雪舟を庇護していた大名大内政弘の命を受けて雪舟が描き、大内氏の下に収められた、というのが現在の有力な説のようです。

 

もともと大内氏は、周防国の国府において、京都から下って来なくなった国司に替わり、現地で実務をとり仕切っていた「在庁官人」多々良氏(たたらうじ)の一族でした。鎌倉幕府の滅亡、室町幕府の成立という、時代の混乱に乗じて多々良氏の頂点に立った大内弘世が、南北両朝の対立をうまく利用して、室町幕府から周防・長門両国の守護職に正式に任命され、この地域に覇権を打ち立てたといいます。弘世の子義弘は、幕府の九州制圧に協力して、北部九州にも勢力を伸ばしたことから、瀬戸内海通航、さらには大陸航路の確保を目指す前将軍足利義満と対立し、応永の乱で敗れる結果となりました。

 

その後、一時的に幕府との関係は改善されましたが、政弘の父教弘の時代になると、幕府の有力者であった山名持豊(宗全)の養女を妻に迎え、もう一方の実力者であった細川氏との対立を深めていきます。幕府を二分した応仁文明の乱で、政弘は祖父の山名持豊を支えるために京都に自ら出陣し、西軍の重鎮として活躍したことはよく知られています。

 

応仁の乱は、叔父大内教幸(道頓)の反乱を招くなど、大内氏の領国支配に混乱をもたらしましたが、「山水長巻」が描かれた文明十八年ごろまでには、北部九州の戦陣も一段落するなど、領国の再建に一応成功したようです。

 

政弘の時代は、一時的な混乱を収拾したことで権力が安定し、幕府との関係も改善していました。「山水長巻」の制作も、こうした領国支配の充実と関係して考えるのが妥当なようです。