山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第368回

2017.10.27

毛利家171020半5_2写真は、江戸時代前期に焼かれた萩焼の花瓶です。ラッパのように開いた口と、たっぷりと膨らませて安定感のある底部が特徴的ですが、取り立てて奇をてらった造形ではないようです。

 

側面には、取っ手のようにも見える、龍をかたどった耳が付けられています。表面には乳白色の釉がかけられ、全面にわたって走る貫入が、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。その造形、大きさなどから、本来は対となるものがあり、あるいは、萩城などの御殿の床飾りとして用いられたのではないか、と想定する人もいるようです。

 

関ヶ原合戦の後、防長両国の領有を認められた毛利輝元は、萩を領国支配の拠点と定めて、城を築きます。その後、毛利氏代々の居城とされますが、文久三年(一八六三)、外国を排斥する攘夷戦を実施するにあたり、海上に突き出た城の立地や、特に藩が外国との係争を予測していた「南海」、すなわち瀬戸内の拠点への号令が出しやすい場として、時の藩主毛利敬親は、城を山口に移す「山口移鎮」を断行したのです。

 

長年本拠とした萩の地は、毛利家や家臣団の墳墓の地として、馴染みが深く、移転には、藩士の不満もあろうと、敬親自身も述べています。しかし敬親は、攘夷戦の敗北、幕府との敵対という未曾有の危機を前に、山口への移転を強行しました。

 

山口への移転後も、萩には城代が置かれ、城としての機能は残されていたようです。しかし、敬親の跡を継いだ元徳は、版籍奉還が実現して、各藩割拠の時代が終わり、府藩県三治の制、すなわち中央主権の体制が、一応整ったことから、割拠時代の産物である萩城を、役割を終えたとして、破却することを新政府に申請しました。他藩に先駆けての廃城申請は、当時、山口藩が抱えていた財政問題も深く関わっていたようですが、維新を実現した雄藩として、新政府が中央集権体制を目指すことを、内外にわかりやすく示す狙いもあったようです。