山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第367回

2017.10.20

Print写真は、硯箱とともに用いる、料紙を置く台で「文台(ぶんだい)」といいます。全体を金の梨地で彩り、金の高蒔絵で菊を、肉厚の漆に金線で流水を描いた、美しいものです。

 

この文台は、対になる硯箱とともに、慶応四年(一八六八)二月に参内した毛利元徳が、朝廷から与えられたものです。前年十二月八日に、王政復古が宣言されると、幕府や摂関など、数百年にわたって日本を支配していた制度が廃止されました。同時に開かれた会議で、長州(山口)藩は、禁門の変における御所への発砲の罪を正式に許され、朝敵の立場から解放されるとともに、入京・参内が認められました。それを受けて、藩主毛利敬親の名代として、次期藩主である世子(せいし)の元徳が上洛し、約五年ぶりの参内を遂げました。この文台は、その時に、これまでの労苦をねぎらって与えられたものなのです。

 

この時、敬親は上洛せず、敬親が京都に入ったのは、五月に朝廷から呼び出しを受けてのことでした。この京都滞在は、約四か月にも及ぶ長いものでしたが、その間領国では元徳が事実上の指揮をとり、敬親は、九月に元徳が上京してくるのと入れ替わるように帰国しています。

 

父子が、あたかも交替で京都に詰めるのは、これが初めてではなく、攘夷実行直前の文久年間にも同様の事態が見られました。この時は、どちらか一方が上方に残り、兵庫ならびに「摂海」と呼ばれた大阪湾の防衛を、途切れることなく務めるよう、朝廷に命じられていました。

 

これらのことは、長州藩内における元徳の立場を、朝廷が高く評価していたことを窺わせるものですが、田中誠二氏によると、実際に元徳は、文久二年(一八六二)に、江戸の下屋敷麻布邸を引き払うにあたり、穴蔵銀(あなぐらぎん)の開封を許可するなど、かなりの権限を藩主である父敬親から委任されていたといいます。これまであまり注目されていませんでしたが、元徳の活動は、再度検討してみる必要があるようです。