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第366回

2017.10.13

a毛利171013_討幕の密勅・2017元徳_366写真は、長州(萩)藩主毛利敬親・定広(元徳)父子に対し、慶応三年(一八六七)十月十四日に、将軍徳川慶喜の追討を命じた、いわゆる「討幕の密勅」です。強大な権力を握った徳川家が、天皇の命令をも偽り、数多の忠良なる家来を葬り、民衆を痛めつけたことを責め、密かに追討を命じたものです。奇しくも同日、慶喜が「大政奉還」を表明し、政権を朝廷に返上したため、追討の名目は失われ、薩長両藩の挙兵も不発に終わったことはよく知られています。

 

ところで、密勅の発令に先立つ十月十三日、密勅を発した中山忠能(ただやす)ら三名は、八月十八日の政変、禁門の変以来、罰せられていた敬親父子の罪を許し、官位を復旧させる沙汰を下しています。これは、先帝孝明天皇の遺言として出されたものでした。

 

これは、「官位復旧沙汰書」と呼ばれますが、現在あまり知られていません。それは、長州藩が最終的に罪を許されるのは、この年の十二月に王政復古が宣言された翌日、九日に行われた朝廷会議の場だったからです。しかも、復権を伝える命令書の包紙に記された説明によると、孝明天皇の遺言ではなく、芸州(広島)藩の取りなしによるものだったようです。

 

「討幕の密勅」は、発行手続や書式の不備、明治維新後も長らく公表されなかった事実などから、起草した中山忠能ら、対幕府強硬派の公卿が密かに作成し、天皇の裁可を経ずに、薩摩・長州両藩に下したものと、現在では考えられています。長州藩に対して発行された、官位復旧沙汰書もまた、同様に正式な手続を経ずして発行されたものなのでしょう、密勅の不発とともに、公表は沙汰止みとされ、敬親父子の復権もまた見送られたのでしょう。

 

密勅に先立ち、薩長両藩は、芸州藩とともに幕府の虚をつき、大坂城を攻撃する計画を練っていました。こうしたクーデター計画といい、怪しげな「密勅」の作成といい、幕末期の政局には不透明なことが多く、勝利者によって後から正当化された事実も多くあるようです。