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第365回

2017.10.06

a毛利家171006_06130010陣笠2017元徳_365写真は、長州(山口)藩最後の藩主毛利元徳(もとのり)が用いた陣笠(じんがさ)です。

 

陣笠とは、もともと兜の代用として、足軽など身分の低い兵士が用いていましたが、軽快さや簡便さから、江戸時代になると大名なども兜の代わりに用いたようです。この陣笠も、正面に毛利家の家紋「一に三つ星」、天辺から四方に、筋兜の筋のような金線が描かれています。

 

元治元年(一八六四)七月に、毛利敬親・元徳父子は、京都に向かう藩兵に対して、軍事上の規律を示した「軍令状」を発行しています。これを携えた家老国司信濃らが、京都に攻め込んだところ、いわゆる禁門の変で幕府軍の反撃を受けて敗北したことはよく知られています。その後、この軍令状に署名したことこそが、敬親・元徳父子の有罪を決定づけたようです。

 

この軍令状は、天文二十二年(一五五三)に毛利元就・隆元父子が定めた「軍法書」を引き、毛利家の「万古不易」の法だとして、発せられたものです。ここには大将の下知に従うこと、敵前逃亡の禁止、深追いの禁止、戦陣が崩れた時の最初に逃げた者に対する処罰などが定められています。この「軍法書」は、天文十九年(一五五〇)に、元就が家中で最も勢力を持つ井上元兼一族を誅伐した後、家中の軍紀を引き締めるため出されたものです。

 

この「軍法書」が出された時代、兵力の拠出、武器の準備、兵站の確保などは、出陣を命じられた家臣が、戦争の内容や、主君との関わり、所領の規模などを基準に、自ら判断し実行していました。そのため、当主である隆元や元就といえど、彼らの自主性を尊重せざるを得ず、彼らは敵前でも自分の都合を前面に出して戦ったのです。熾烈な戦いを勝ち抜き、家を維持するためには、こうした家中の恣意を制限し、毛利家当主の指揮の下、一団となる家臣を育成する必要がありました。こうした古い軍法をわざわざ持ち出し、「万古不易」と主張せざるを得なかった、敬親・元徳父子が置かれた立場とは、どのようなものだったのでしょうか。