山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

お問い合わせはこちら

第364回

2017.09.29

Print 写真は、八月十八日の政変に敗れた三条実美ら、攘夷派の公卿たちが、長州(萩)藩へ落ちのびていく様子を描いた「七卿落図」です。七卿の一人沢宣嘉(さわのぶよし)の記憶により、明治時代になってから、松本楓湖(ふうこ)に描かせたもののようです。記憶が美化されているのか、落ちのびるさまでありながら、美しく描かれているようにも思われます。

 

文久三年(一八六三)五月十日、長州藩は、かねて幕府が朝廷に約束した、攘夷実行の期日に従って、関門海峡を航行する外国船を砲撃しました。この時砲撃されたのは、アメリカの商船でしたが、長州藩はこの「戦果」をすぐ朝廷に報告したのでしょう、七月八日には勅使正親町少将が山口を訪れ、藩主毛利敬親・元徳父子の功績をたたえる孝明天皇の勅書、いわゆる「攘夷の褒勅」を与えています。

 

実はこの間、六月一日にアメリカの報復を受け、長州藩の軍艦壬戌丸は沈められていました。また、五日にはフランスの報復により、関門海峡に設営されていた台場が破壊されていました。

 

褒勅が滞りなく下賜された点から推測するに、長州藩はこの敗北を、朝廷には隠していた可能性があります。しかし、程なくこの敗戦は広く知られるところとなり、七月二十九日には、長州藩の「攘夷」を、幕府の命令からは逸脱した不法の所行として、幕府は詰問使を派遣します。この詰問使が、そののち藩内で何者かに暗殺されるのですが、それら一連の報告を受けた孝明天皇は、これまでの長州藩優遇の態度を豹変させ、長州藩の宮門守備の任を解き、さらには長州藩士の宮中出入りを禁じることになるのです。

 

この間、長州藩に同調し、過激な攘夷実現を目指していた三条実美ら七人の公卿は、この絵のように、長州藩士らと京都を脱出します。ただ、廷臣の無断逃亡は、天皇の怒りに油を注ぎ、長州藩の立場をいっそう悪くしただけだったのです。