山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第363回

2017.09.22

a毛利家170915_元徳・ほっぷ363写真は、長州(萩)藩の十三代藩主毛利敬親の肖像画です。写真でも参考にしたのでしょうか、顔の部分のみが妙にリアルな感じです。真正面を向くのは、神像などに多く用いられる方法ですが、これも、敬親の神格化が進んだ、敬親死後に描かれたものと思われます。

 

敬親は、会津・仙台両藩が降伏して、東北諸藩の処遇が定まった明治二年(一八六九)三月、新政府に対して、自らの隠退願いと、嗣子毛利元徳の相続願いを提出しています。すでに敬親は体調を崩していたらしく、王政復古と同時に、これまでの長州藩の罪が許され、敬親・元徳の上京が命じられた時にも、上京したのは、元徳一人でした。その後、再三の督促により、敬親は慶応四年(一八六八)五月、久しぶりに上洛を果たしますが、九月に元徳が国元から上京すると、急ぐかのように山口に戻っています。その後、朝廷の再度の督促により、明治二年二月に上京・参内を果たすと、帰国直後の三月に、隠居を願い出たのです。

 

このときの願書は、朝廷に提出されましたが、その様式は、歴代の藩主が、隠居もしくは養子を願い出る時の書式と全く同じものでした。また、現在毛利博物館には、慶応四年に作成された「防長両国郷村髙辻帳」が残されています。これは、将軍代替わりごとに、各大名の所領と人民の支配権を確認するため、領内各村の石高を幕府に届けるものです。これはどうやら、提出はされなかったようですが、こうした点からは、この段階では幕府から朝廷への政権交代を、藩側では将軍代替わりと同様に対処しようとしていたように思われます。

 

隠退願いに先立つ明治二年正月二十日、敬親は薩摩・土佐・肥前三藩主と連名で、大名が支配していた土地と人民を、天皇に返上する版籍奉還の願いを、朝廷に提出していました。つまり新政府が、これまでと異なる国家だということは、理解できていたはずですが、旧藩主の地位がどうなるかは流動的で、彼らも手探りで行く末を見極めようと必死だったのでしょう。