山口県のフリーペーパー「地域情報新聞 ほっぷ」WEB版

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第362回

2017.09.15

a毛利家170915_(毛利安子像2017元徳ほっぷ362)2写真は、最後の長州(山口)藩主となった毛利元徳の妻安子の肖像画です。安子は、天保十四年(一八四三)支藩の長府毛利元運(もとゆき)の二女として江戸で生まれ、はじめは銀姫と名のっていました。母は元運の正室欽子(なるこ)です。嘉永四年(一八五一)、九歳の時、宗家の長州藩主毛利敬親(たかちか)の養女に迎えられ、安政五年(一八五八)同じく養子とされていた元徳と結婚し、長州藩・毛利家の将来を託されたのです。

 

元徳もまた、支藩徳山藩の藩主毛利広鎮(ひろしげ)の実子でした。元徳・安子は、ともに支藩から養子とされ、毛利宗家を継承したのです。この縁組は、岩国吉川家の支藩への昇格とあわせて、敬親による支藩との関係強化、挙国体制の構築を目的としたものであったようです。

 

これらの支藩は、いずれも江戸初期に作られました。長府藩は、毛利元就の四男元清の子で、一時は宗家輝元の後継者ともされた秀元に、領国西端の防衛を担わせるため設けられました。岩国藩は、同じく元就の次男吉川元春の三男広家に、領国東端の防衛を担わせるために作られました。この配地を決めた毛利輝元によると、秀元・広家の両名には、かつての「両川」のごとく毛利宗家を支える役割を期待していたようです。

 

徳山藩は、毛利輝元の次男就隆に、就隆の兄で初代長州藩主となった秀就を支えさせるため、「蔵入」とよばれる貴重な直轄領を、わざわざ割いて作られました。

 

分出の当初は、いずれの家にも、毛利宗家を支えることが期待されていたのですが、当主である秀就との確執や、幕府との親疎により岩国吉川家のみが家格を下げられたことなどから、これらの藩は前後して、本藩との間に対立を生じさせ、その対立が、江戸前期藩政の重要な問題とされたのです。敬親の時期には、表だっての対立は、既に解消していましたが、あえて挙藩体制を打ち立てなくてはならなかったのはなぜか、未だ明確な答えはないようです。