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第361回

2017.09.08

st毛利家170908毛利元徳像写真は、長州(山口)藩最後の藩主となった、毛利元徳(もとのり)の肖像画です。元徳は、支藩の徳山藩主毛利広鎮(ひろしげ)の子でしたが、嗣子がいなかった長州藩主毛利敬親(たかちか)の養子となった人物です。

 

次期藩主の座である世子(せいし)となり、当時の規定に従って、江戸住まいをはじめるようになると、航海遠略策を幕府に提言したり、高杉晋作らの英国公使館襲撃計画を阻止しようとするなど、元徳は、敬親の名代としての役割を果たすようになります。

 

田中誠二氏によると、文久二年(一八六二)に参勤交代の制度が緩和され、大名の正室や世子の帰国が認められると、長州藩は早々に元徳らの帰国を進めますが、その時、藩邸に蓄えられていた「穴蔵銀(あなぐらぎん)」の開封・使用を許可したのは、元徳であったとされます。

 

また、長州藩が公武合体から尊皇攘夷へと舵を切ると、朝廷の命により、敬親の在国時には在京し、朝廷が望む攘夷実現のために奔走を命じられています。下関での攘夷戦に敗れた後、隠棲していた高杉晋作を呼び出したのも元徳でした。その後、禁門の変に際しては、敬親と連署で軍令状を発し、自らは、全軍を監督する立場として、中途まで上京を試みています。

 

王政復古により、朝敵としての長州藩の罪が許されると、体調を崩していた敬親に代わって上京し、議定に任じられるなど、元徳の役割は藩を代表して、多岐にわたっていました。

 

元徳に関しては、戦前に編さんが試みられた「忠愛公伝」という膨大な量の伝記が存在します。これは元徳の顕彰を目的としたものですから、客観的な立場から元徳の活動を論じたものではありません。戦後は、「有司」や「志士」と呼ばれる能力豊かな下級藩士らの功績を高く評価する一方で、藩主らの役割を軽視する傾向のなかで、元徳の活動が、学術的に評価された形跡はみられません。元徳の果たした役割に対する学術的な評価は、今後の課題のようです。