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第360回

2017.09.01

毛利家170901画像写真は、羽様西崖が、江戸時代末期の萩の様子を描いた絵巻の一部です。萩城下の菊が浜における陸戦訓練の様子を描いた部分です。江戸時代の末期、長州(萩)藩では、西洋列強の進出に備え、藩主毛利斉元・敬親の二代にわたって、「公内借捌き」と呼ばれる施策を実施して、家臣借財の整理に努め、家中一統に軍備を怠らないように命じています。

 

長州藩の場合、軍事力の中核は、後世には分家などにより、数十石まで細分化されますが、おおむね家禄百石を超える家臣から構成された、一門・寄組(よりぐみ)・大組(おおぐみ)と呼ばれる中上級家臣団でした。このうち大組士は、八つの組に分けられ、寄組の中から選ばれた組頭の統率の下、萩城の警備や参勤交代などを輪番でこなしていました。

 

彼らの大半は、戦国時代には、数郡から村程度の領域を治める、まさに一城の主でした。彼らは、同盟や戦争を通じて毛利氏の傘下に属し、毛利氏当主の命を受けて、戦場を駆け巡っていたのです。基本的には一城の主ですから、毛利氏の命を受けると、主従関係を結んだ家臣を引き連れ、自らの判断で戦闘を進める、自立性の高い領主でもありました。

 

関ヶ原後、毛利氏に従い防長に移った彼らは、大規模・組織化された戦争に対応するため、所持高の小さな者から大組八組にまとめられたようです。しかし、基本的には各自が家臣を率い、毛利軍としての一体性を失わない範囲で、独自に戦うことに変わりはありませんでした。

 

言い切ってしまえば、戦争に参加する武士たちは、自らが主君と仰ぐ人物のために奉公し、その奉公に対し、それぞれの主君が、家臣の働きを査定し、御恩を与えることが、武士軍団の基本だったのです。大名たちは、個別に動こうとする家臣団をどうにかまとめて、一つの軍団にまとめる必要がありました。こうしたばらばらな軍事組織では、とうてい西洋列強と渡り合えませんから、明治政府の首脳は、武士身分そのものを解体せざるを得なかったのです。