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第359回

2017.08.25

毛利家170825紺糸威具足yo 写真は、長州(萩)藩の十三代藩主毛利敬親の具足です。「素懸威(すがけおどし)」といい、鎧の部材をつなぐ糸が少なく、黒い漆が目立つこと、丈夫な紺糸を用いていることなど、質実で強剛な感じを強調した、動乱の時代の藩主にふさわしい具足だといえます。

 

敬親は、十一代藩主毛利斉元の長子として、江戸で生まれましたが、その後本国萩に戻されたようです。元服間近まで、政局の中心である江戸で暮らしていなかったことからすると、特に何もなければ、将来は祖父の親著(ちかあきら)のように一生部屋住として暮らすか、一時は家老の福原家の養子となっていた父の斉元のように、家臣の家に養子として迎えられるか、いずれにしても政務の表舞台に立つことなく過ごしていたことでしょう。

 

敬親の境遇が一変したのは、天保七年(一八三六)のことでした。この年十二月、ようやく家督の相続を認められたばかりの十二代藩主毛利斉広(なりとお)が、相続から一月もたたないうちに急死してしまったのです。敬親が藩主になって初めての国入りの際下した訓示によれば、敬親は何も知らされないままに江戸に呼ばれ、江戸に到着した後、斉広の危篤を知ったようです。藩主になる上での、斉広からの「御直伝」もなかった、と述べていますから、実際には斉広の臨終には間に合わなかったのだろうと思われます。

 

敬親が家を継いだ当時の長州藩は、これまでの放漫財政の累積、度重なる天災や不作、三代の藩主が相次いで亡くなり、その葬儀と家督の相続に多額の費用を要したことなどから、村田清風が「八万貫目余之大敵」と呼んだ、かつてない額の借財に苦しんでいました。また、敬親の具足に端的に示されるように、西洋列強への軍事的な対応も待ったなしでした。

 

庶流でありながら家を継いだ敬親にとって、最大の課題は、毛利家をどう存続させるかだったと思われますが、敬親の船出は、初発から途方もない困難が立ちはだかっていたのです。