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第357回

2017.08.11

毛利家170811毛利斉広像写真は、長州(萩)藩の十二代藩主毛利斉広(なりとお)の肖像画です。凜々しい青年の姿で描かれていますが、天保七年(一八三六)、先代藩主毛利斉元の死により、藩主の座を継いだ斉広は、襲封から一か月もたたないうちに、二十三歳の若さで亡くなっています。

 

斉広は、実父の十代藩主毛利斉煕(なりひろ)が目指した、家格の上昇策により、毛利家歴代で初めて将軍の実子である和姫(かずひめ)を妻に迎えていました。将軍の娘婿となった結果、まだ藩主になる前の世子(せいし)でありながら少将に任じられるなど、歴代で最も早く昇進を遂げていましたから、二十三歳での早すぎる死は、毛利家にとって大きな痛手でした。

 

しかも、斉広の下に降嫁した和姫は、斉広に先立ち、天保元年(一八三〇)、嫁いだ翌年には病のためこの世を去っていました。和姫の降嫁に際しては、江戸上屋敷の桜田邸に、和姫を迎えるための、新たな御殿を建設するなど、既に多額の資金が費やされていましたが、続く葬儀にも費用がかかり、藩財政はこれまでになく逼迫した状況に追い込まれました。

 

田中誠二氏によると、和姫死後の財政窮乏を打開するため、藩は富くじや芝居免許の運上取り立て、大坂商人からの借銀と利下げ・年延べ、「空米切手」の発行による当年度の収量予測を上回る年貢米の先物取引、藩札を用いた諸産物買上、すなわち専売政策を強化したといいます。しかし、この専売政策は、回収の裏付けを伴わない藩札を大濫発することで推し進められましたので、藩札の価値は急降下し、価値のない藩札の使用を強制され、手ひどい打撃を受けた領民たちが、全藩におよぶ大一揆を引き起こす結果となりました。

 

藩の史上初めての全藩一揆を、藩の危機とみた十一代藩主毛利斉元は、一揆の原因を、藩の実権を握り、家格の上昇や産物政策を積極的に推進していた先代藩主斉煕の政策にあると考え、一揆収束後の天保三年(一八三二)、萩城内にて改革の断行を宣言したのです。