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第356回

2017.08.04

mt毛利家170804陣羽織写真は、長州(萩)藩の十三代藩主毛利敬親(たかちか)が着用した陣羽織です。

 

陣羽織とは、陣中などで鎧の上から着る羽織のことです。これは、藩主のものらしく、表地は、唐草に桐紋を地文様とした大和錦、裏地はすべて金で装飾しています。背には大きく毛利家の家紋である「一に三つ星」を、左右の腰には同じく「沢瀉(おもだか)」を、切付で描き、この陣羽織の主が、藩主毛利家の当主であることが一目で分かるように工夫されています。

 

この陣羽織は、毛利家の所伝によれば、天保十四年(一八四三)に、萩郊外の羽賀台(はがのだい)で実施された大演習で着用されたものだそうです。この演習は、藩士一万人以上が参加する、長州藩始まって以来の大演習だったそうです。天保十四年といえば、ペリーが黒船に乗ってやってくる、十年も前のことですから、西洋列強の度重なる接近に、この藩の首脳たちが、相当の危機感を持っていたことの現れとみなすことができます。

 

江戸時代の長州藩は、「一門ならびに益福両家」と呼ばれ、代々加判役や当職・当役などの家老職を輩出したことから、一般に「永代家老」とされる、宍戸氏以下八つの家老家の下、「寄組(よりぐみ)」・「大組(おおぐみ)」と呼ばれる上級家臣団を、八つの軍事集団に分けた「八組」を、その軍事力の根幹としていました。

 

石高にすると、おおむね百石程度以上の家臣団がこれに相当するようですが、敬親が藩主となった江戸時代後期には、分家などによってかなり零細化した大組士も多く、恒常化した「馳走」と呼ばれる、給与の切り下げなどにより、どの藩士も借財に苦しんでいたようです。こうした大身の武士たちが、石高に応じて定められた武器や兵士を自ら揃え、戦陣に連なるのが、近世武士団の軍事編成の基本でしたから、藩士の極度の窮乏は、藩の軍事編成を根幹から揺るがす、深刻な危機だったのです。