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第355回

2017.07.28

毛利家170728毛利忠正像斉広は、実父である十代藩主斉煕の家格上昇策により、将軍徳川家斉の娘和姫を娶り、まだ家督を継いでいない世子(せいし)の身でありながら、少将に任官していました。毛利家の場合、初代藩主毛利秀就が少将に任じられた後は、七代重就・十代斉煕しか任じられていませんでしたから、毛利家にとっては、念願の地位でしたが、和姫の降嫁により、十一代藩主の斉元のみならず、世子の斉広まで少将に任じられたのです。

 

将軍と毛利家の橋渡しを期待された和姫でしたが、文政十二年(一八二九)に嫁ぐと、早くも翌年には病死してしまいました。結婚の期間は僅かでしたが、この間、和姫を迎える新御殿の建築や、斉広の元服と侍従任官の祝儀、和姫の葬儀にも、多大な出費が必要でした。

 

田中誠二氏によると、財政補填のため、前藩主斉煕が主導した経済政策は、いずれも領民に負担を転嫁するものであったようです。反発した領民は、天保二年(一八三一)に大一揆を起こし、産物専売の政策を撤回させました。それまで、政務に関して蚊帳の外に置かれていた藩主斉元は、この機を逃さず、藩主一族に配当する予算を半減させるなど、積極的な財政改革に乗り出しますが、凶作などにより、今ひとつ成果を挙げることができなかったようです。

 

天保七年には、前藩主斉煕に続き、藩主斉元、新藩主斉広が相次いで亡くなりました。三代の藩主の葬儀や襲封による出費は、途方もなく莫大なもので、遂に藩の借銀は、九万貫を超える未曽有の額に達したそうです。何の前触れもなく藩主になった、僅か十八歳の敬親が直面したのは、かつてない借銀に苦しむ藩財政をいかに立て直すかという大問題でした。